2024年3月3日の説教要約 「人生の海の嵐」 

2024年3月3日の説教要約

      「人生の海の嵐」    中道由子牧師

 

《ですから、皆さん、元気を出しなさい。わたしは神を信じています。わたしに告げられたことは、そのとおりになります。》(使徒言行録27章13~26節)

 

パウロはいよいよローマに向けて船出します。

それは、まさに命がけの旅だったのです。

パウロの遭遇した嵐と私たちが遭遇する人生の嵐を重ねてみていきたいと思います。

 

1、思わぬ暴風

地中海では、11月以降は航海は最も危ない時期とされていました。

ちょうどその頃にクレタ島を出発しようということになったので、パウロは黙っていられず、「皆さん、わたしの見るところでは、この航海は積み荷や船体ばかりでなく、わたしたち自身にも危険と多大の損失をもたらすことになります。」と警告したのでした。

彼は今までにも難船の経験が何度もあるし、一昼夜海の上を漂流したこともありました。

だから、本職の船乗りからみればしろうとかもしれませんが、経験に基づく彼の意見は尊重されるべきでした。

しかし、百人隊長は航海士や船長の言うことの方を信用したのです。

まもなくパウロが心配していたことが的中してしまいます。突然、何の前兆もなく、エウラキロンと言われている暴風が襲って来ました。

船はこの風のために苦しめられましたが、カウダという小島の陰に難を逃れ、やっとのことで小舟をしっかりと引き寄せることができたのです。

 しかし、その翌日になっても嵐は収まりそうもなく、彼らは積み荷を捨て始めました。

三日目に人々は、ついに自分の手で船具まで投げ捨てざるを得なくなったのでした。

ですがこれらのことをしても、事態は少しも好転しなかった。

当時の航海は、今日のように機器がそろっているわけではないので、太陽や星を頼りに航海するものでした。その肝心の太陽や星が全く見えないのでは、船の進路をつかむこともできず、ただどこかの陸地に打ち上げられるのをじっと待つほかはなかったのでした。情況は絶望的でした。無線も携帯もない時代です。

嵐の中、周りがまっくらでどこに進んでいいかわからなくなったその時こそ、パウロの出番でした。

 

2、安心できる理由

パウロは、食事ものどを通らないほどの失望している乗船者の前に立って、パウロの忠告を聞き入れなかったために起きた事態であることを、彼はまず指摘しました。

そして、は彼らの前に毅然とした態度で立ち、船は失っても命を失うことはないから、「元気を出しなさい。」と言って皆を励ましたのです。どうしてパウロはこのようなことが言えたのか。それは、前の夜に主の言葉があったからです。

パウロ、恐れるな。あなたは皇帝の前に出頭しなければならない。神は、一緒に航海しているすべての者を、あなたに任せてくださったのだ。」

 この言葉は、どんなにパウロを勇気づけたことでしょう。

またこの船に乗っていた人たちにとっても、使命遂行のために神の保証を受けているパウロが乗り合わせていたことは、どんなに幸いなことであったか分からない。

 私たちが生きていく中で、このエウラキロンのような突風に会うことがあるのではないでしょうか。そのために、どうしたらよいか分からなくなるような、絶望的な窮地に追い込まれることもあるでしょう。

マタイ福音書8章で、弟子たちがイエス様と乗っていた船が嵐に見舞われましたが、イエス様は、大変な嵐と突風の中で船が転覆するかもしれない中でも熟睡されていたのです。

エス様は天地の造り主であられますから、どんな環境にも支配されません。

驚いたり、困ったりということはないのです。イエス様は確かに人間の体を持っておられましたが、その環境に支配されるということがなかったのです。

そのイエス様と一緒に人生の船に乗っていることを忘れてはいけません。このお方が一緒でなければ、どんなに良いことばかりの人生のように見えても不安だらけです。

でも、この方が一緒に歩んで下されば、安心です。

 人生にはいつでも嵐が起こるものです。その嵐をどのように受け止め、勝利するかが重要です。

 

3、周りを助ける力

このような情況の中で、ただ自分が助かりたいだけではない、不安と恐怖に同じようにおののいている他の人々を力づけることが出来たらと思います。

そして実は、それがこの世に生かされている私たちクリスチャンの使命なのではないでしょうか。パウロは何の根拠も持たないでただ人々を励ましたのではないのです。

それは、「わたしは神を信じています。わたしに告げられたことは、そのとおりになります。」という確信に基づいたものでした。大丈夫だと保証してくださる神がおられる。

その神は、「私の仕え、礼拝している神」だからです。

普段仕えていなかったら、いざという時、神の保証を信じることは難しいでしょう。

こうして彼は神の言葉に信頼することができたからこそ、「わたしたちは必ずどこかの島に打ち上げられるはずです。」と宣言できたのです。

神に仕えている一人の人が使命を遂行しようとし、そして信仰に立つ時、その人のゆえに周りの人々までもが救いの恵みに預かることができる。

このことを私たちは忘れないようにしたい。

どんなに周りが不信に満ちていて、沈没しそうな情況の中にあっても、救われた私たちの存在は決して小さくないのです。