2021年3月28日の説経要約
「光と闇」 中道由子牧師
≪二つの国民があなたの腹の内で別れ争っている。
一つの民が他の民より強くなり、兄が弟に仕えるようになる。≫
(創世記25章19~34節)
≪光は闇の中に輝いている。闇は光に勝たなかった。≫
1,双子の誕生
イサクは、20年間不妊の妻リベカのために主に祈ったのですが、本当に切に祈ったのは彼が60歳近くなった時だと思われます。主はイサクの祈りに応え、リベカは身ごもります。双子の兄弟でした。
双子がお腹にいるだけで大変なことでしたが、リベカの場合もっと困ったことに、お腹の中で子供たちがぶつかり合うようになったというのです。この時肉体的、精神的な危機を感じたリベカは、初めて主のところに行き、真剣に祈るようになりました。今日では医学が発達していますが、出産は女性にとって命に関わることでした。
主はこのリベカの祈りに答えてくださって、2つの御心を知らせてくださいました。ひとつは、この双子のそれぞれから国民が分かれ出るということ、もうひとつは、兄が弟に仕えるということです。
双子が生まれる時、弟ヤコブの手が兄エサウのかかとを掴んでいたというのです。これを読むと、双子と言うのはこうやって簡単に生まれるものと思うでしょう。全く違います。一人産むと力が尽きてしまって、二人目は帝王切開になるケースもあります。この時代帝王切開などなかったでしょう。リベカが一人産んで力が尽きてしまったらたいへんな難産になり、ヤコブは生まれることができたかわかりません。しかし、神の計画は、弟ヤコブが跡継ぎになることでした。赤子のヤコブは兄のかかとを掴んで自ら母の胎から出てきたのです。
2,親の偏愛
兄エサウは、全身毛皮の衣のような赤ちゃんとして生まれ、巧みな狩人になりました。彼は自立しており、個人で生きていける猟師となったのです。弟ヤコブは、穏やかな性格とあります。彼は社交的で、人間関係をうまくやっていくタイプだったのでしょう。彼の仕事は、天幕に住む、つまり羊飼いだったのです。
二人の特徴や職業自体は何の問題もありませんでした。それぞれがその性格にふさわしい職業つき、それぞれの役割を果たしていたのです。
問題なのは、親です。父イサクは狩りの獲物が好物だったから、エサウを愛した、と書かれています。エサウは父の好みのものを捕ってはしばしば持ってきてくれたからでしょう。イサクの弱点はこの食欲であったようです。それに対して、お母さんのリベカは、穏やかなヤコブを愛したのでした。彼のスマートな賢い性格を好んだのかもしれません。親も人間である以上好みがあると言われます。出来の良い子を愛したり、自分の誇りになるからです。また、出来が悪いからいつも自分がついてやらないと、と保護になったりします。しかし、親がそのような自己中心的な思いで子供に接すると、そこには大きな問題が起こってきます。もし、イサクとリベカが互いに愛し合い、主にあって一心同体となり、お互いを必要な存在として認め合っていたら、それぞれの好みがあったにしてもこれほどの問題にならなかったのではないでしょうか。夫婦が相手に失望するときに、自分の好みの子ども、自分の理想をかなえてくれそうな子供の中に、自らのアイデンティティーを見出そうとします。
ここに兄弟同士の争いの原因が芽生える可能性があると言うのです。
親もそれぞれ不完全であり、十分な愛情を持ち合わせていないのです。
私たちはイエス様の救いに預かって、初めて父なる神様の愛がわかるようになります。
この神様の愛は、皆私たちに対して公平なのです。
どうして神様はあのような人を用いられるのか、と思ってしまったり、この人には厳しすぎる、この人には神様甘いな、とか私たちは勝手に自己中心な観点から見て感じてしまいます。
でもその人生の全体を知る時、神様は実に公平なお方であり、一人一人にとって恵み深い、憐み深いお方であると思います。
神様は私たちの親として、私たちに期待をかけ、夢を与え、愛する者と出会わせ、失望すれば、また道を開いてくださる。厳しい試練の中を通った後を振り返ると、自分が少しずつ成長し、変わってきていることもあると思います。
3、神の憐み
エサウとヤコブについては、新約聖書で疑問に思うみ言葉があります。
ローマの信徒への手紙9章12-13節「『わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ』と書いてあるとおりです。」
16節「従って、これは、人の意志や努力ではなく、神の憐れみによるものです。」
「ヤコブを愛した」ということは理解できますが、なぜ神は「エサウを憎んだ」のか?
まだ子供らがうまれもせず、善も悪もしない先に、ヤコブは愛され、エサウは憎まれるのか?
ヘブライ語では、愛することの反対は憎むことだからと言われますが、なかなか納得できません。
お腹が空いてヤコブの料理と長子の特権を交換してしまった長子の特権をおろそかにしたからでしょうか?
でも、ここで「憎まれている」のは、その人間的な失敗が問題となっているのではありません。
ヤコブは、将来イスラエルとしてマタイによる福音書の1章の系図に名前が記される人として選ばれた、これが神が愛したという表現です。エサウを憎んだ、私たちには厳しいと思えるこの表現は、エサウはイスラエルを背負う役目としては選ばれなかった、ということなのです。
ここに出て来る神の選びの計画の中に、なぜヤコブというポジティブ、光の存在、とエサウというネガティブ、闇の存在を置くのでしょうか?
今私たちは新型コロナウイルス感染症で苦しんでいます。これは、歴史の中で闇の部分です。
今日の日本の平和、それは何百万という戦死者、関東大震災、多くのネガティブな出来事の上にあります。
なぜそのような悲劇なしに、人間は賢明にならないのでしょうか?
ある神学者は、「人間には、何か深い本性的な欠陥があって、犠牲なしに目を覚まさない。覚ませないところがある。」のというのです。闇なしに光がわからない。
そして注解書の次の説明で私は納得しました。「エサウなしにヤコブなしなのであります。」
双子は本当にそうなのです。片方なしに、もう一方の存在はないと感じます。
私たちは車を運転する時、事故車の傍らを通り、気をつけないと思って安全運転をしようと思います。あの壊れた事故車がそばに置かれることなしに、気をつけるようにならないのが人間の弱さであるとしたら、神は、人間の救いのために、ヤコブだけを選ぶのではなく、エサウをネガティブな者として、その傍らに置かれたというのです。
ところが、選ばれたヤコブの子孫、イスラエルはこの神の選びのご計画を軽んじ、神の愛を無にしてきました。
神の最高の愛であるイエスを十字架にかけ、イエスを受け入れなかった。まるでエサウが長子の特権を軽んじたように、神の愛を軽んじたのです。
その結果、エサウの子孫である異邦人が救われるという逆のことが起こったのです。
神は、「ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡された」のであります。
十字架によって救われた私たち、異邦人である、教会はエサウの立場にあったにもかかわらず、神の逆転の祝福に預かるものとされたのです。
なぜこの世に光だけでなく、闇があるのでしょうか?
病気なしには健康のありがたさがわからない世界です。
しかし、イエス・キリストはこの闇を打ち破って私たちの人生に光をくださるのです。
ルカによる福音書23章44~46節「既に昼の十二時ころであった。全地は暗くなり、それが三時まで続いた。太陽は光を失っていた。神殿の垂れ幕が真ん中から避けた、イエスは大声で叫ばれた、『父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。』こう言って息を引き取られた。」
太陽が光を失ったのです。闇が全地を覆ったのです。私たちの罪がキリストの上で裁かれ、父なる神がイエス様から目をそむけ、主は見捨てられたのです。これがまことの闇であります。
今私たちには、イエスの復活を通して、光の世界が約束されています。
エサウの子孫であった私たちに、救いが来たのです。