2021年4月4日の説経要約 「あなたは今祝福されています」

2021年4月4日の説経要約

                「あなたは今祝福されています」  中道由子牧師

  

≪彼らは答えた。「主があなたと共におられることがよく分かったからです。

  あなたは確かに、主に祝福された方です。」≫

(創世記26章12~33節)

 

 

 今日は神様は私たちにたくさんの祝福をくださる方であることを創世記の中から続けてみていきたいと思います。

聖書のこの時代に「井戸を掘りあてる」ということはたいへんな祝福を手に入れることであったのです。特にパレスチナのように土地が乾燥して、雨もあまり降らない所では、井戸は大変貴重なものでした。 今日はイサクの井戸にまつわるお話しです。

 

1,ねたみと嫉妬を受ける時

 飢饉の中で、イサクは手に入れたわずかばかりの種をその地に蒔きました。

するとその年に百倍の収穫をゲラルの地で得たのです。このような飢饉の時には考えられないことでした。まさに主の祝福に預かったのです。

ところが、誰か一人の人が祝福されると、周りはどうでしょう?

神を知らないペリシテ人はこれをよく思いませんでした。裕福になったイサクをねたんだペリシテ人は、しもべたちが掘った井戸をふさいでしまいます。

そして、17節「あなたは我々と比べてあまりに強くなった。どうか、ここから出て行っていただきたい。」と言って、イサクは、その場所から追放されました。

神の祝福がある場所には世のねたみや嫉妬が起こるものです。

 イサクはどうしましたか?

彼は揺らぐことなく、ペリシテ人のねたみと嫉妬を広い心で受け止めます。自分が受けた祝福を分かち合うことを考えて、井戸を譲ったのです。

 私たちはどうでしょうか?神の祝福を完全に味わうために、自分が少し譲ったり、あきらめたりしたことがあるかもしれません。

 

2,平和を愛する人

追放されたイサクが天幕を張って住んだゲラルには、アブラハムの時代に掘られて、その後ペリシテ人によって塞がれてしまった井戸がありました。イサクは、その塞がれてしまった井戸をもう一度掘り起こしたのです。

イサクのしもべたちは、また新しい井戸を見つけました。

父の祝福の泉を掘り出した後に、イサクはそれに加えて新しい祝福の泉を見出しました。

 この二つの井戸についても争いが起こりました。

イサクたちがアブラハムの井戸を掘り起こして、水が豊かに湧き出るのを見て、ゲラルの羊飼いたちが「この水は我々のものだ」と言って争ったのです。

また、新しく掘り当てた井戸についても争いが起こり、イサクは、そこから移って、もう一つの井戸を掘った、と書かれています。

祝福の人はどこに行っても神の平和を作ります。イサクに対するペリシテ人の妬みは止まりません。彼らはイサクが井戸を掘るたびに争いを起こしました。

カナンの地では水が貴重なので、井戸を発見しさえすれば大きな財産となります。

しかし、争いという名前の井戸と敵意という名前の井戸を後にして、イサクが手に入れたのは、22節「レホボト(広い場所)」という名前の井戸でした。

「今や、主は我々の繁栄のために広い場所をお与えになった」と書いてある。

ハレルヤー!と晴々した喜びの井戸が与えられたのです。

 イエス様に出会ったとき、私たちもレホボト、広い世界に解き放たれ、聖霊の喜びが

私たちの心の井戸から湧き上がってくるのです。

3つ目の井戸については、誰も文句を言いませんでした。それで、イサクはようやくその井戸を自分のものとします。

イサクは、本当に平和と譲歩の人です。隣人と平和を作るために努力しました。

ペリシテ人に追い出されても、住むところを広げて下さる神のご計画だ、これは祝福が広がるチャンスだと考えました。

わたしたちの周りにも、なぜこのようなことが起こるのか、ということに巻き込まれたり、どうして自分はこういう思いをしなければならないのかと、理不尽な中で苦しむこともあります。しかし、その思いに固執すると余計苦しみます。

怒りの気持ちでいっぱいの時に、「ありがとう」という感謝の言葉を耳にすると、脳は最初は混乱します。脳は、感情と口にしたことがくい違っていると大きなストレスを感じ、どちらかにすり合わせようとします。しかし、「ありがとう」と言うことを何度も口にすればするほど、その言葉に感情を合わせざるを得なくなってきます。

脳の仕組みとして、感情は聴覚に従いやすくなっている、というのです。

受け入れにくいことでもだんだんとそう思えるようになってくるというのです。

これを「聖なるあきらめ」と呼ぶそうです。

ものの見方が変わり、それでよかったと思える。人を恨みながら生きていくより、感謝して生きていく方が幸せです。

そして、神様は倍の祝福をくださいます。

 

3,主がともにおられることを見た

  ペリシテ人たちがイサクを追い出して、いろいろな場所を転々とさせ、彼を苦しめていた時に神はイサクに現れ、神の恵みが何かをもう一度確かめさせてくださいました。人々が私たちをだましたり、不親切なときこそ、誠実で恵み深い神に慰めを受ける時です。

神様は私たちが人々によって失望した時にこそ現れてくださいます。

次の26節からおもしろい展開になっていきます。

そのころ、「アビメレクが参謀のアフザトと軍隊の長のピコルと共に、ゲラルからイサクのところに来た。」27節「イサクは彼らに尋ねた。『あなたたちは、わたしを憎んで追い出したのに、なぜここに来たのですか。』」

まったくそのとおりです。追い出した張本人が話があるというのですから。

イサクは、土地のない異邦人の身分で飢饉を避けてさまよい歩く境遇でした。

イサクは、神の言葉通り生きるために努力してきました。ペリシテ人の不当な扱いに力をもって対抗せず、信仰をもって待ったのです。すると予想していなかったことが起こります。28節「彼らは答えた、『主があなたと共におられることがよく分かったからです。』」と言って、ゲラルの王アビメレクとその側近が平和条約を結ぼうと言って、イサクのところにやってきたわけです。イサクを追い出した張本人が、平和を求めるという、劇的な変化が起こりました。何度も井戸を奪われ、苦汁をなめながら、イサクはひたすら主に信頼し、そして祝福を与えられたのです。

その姿を見てアビメレクは、主がイサクと共におられることを否定できなくなったのです。

アビメレクがペリシテの王であり、軍隊を持っていたことを考えると、どんなに裕福とはいえ一人の寄留者にすぎないイサクと平和条約を結ぶことは考えられないことでした。

イサクは、アビメレクたちをもてなし、契約を結び、平和のうちに彼らを送り出しました。今まで受けた仕打ちを恨んだり、復讐したりはしなかった。

彼はすでに、信仰によって勝利を得ていたのです。

まさに、ローマの信徒への手紙12章21節「悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。」です。

  その日、記念のようないいことがありました。

32節「その日に、井戸を掘っていたイサクの僕たちが帰って来て、『水が出ました』と報告した。」

もう一つの井戸が与えられたのです。彼はその井戸を「誓い」と名付けた。

イサクが住んだベエル・シェバは「誓いの井戸」と呼ばれました。

主から新しい恵みをいただいたのです。

 井戸をいくつも掘り当てても、永遠に水が沸き上がる井戸にはならないかもしれません。

しかし、今朝復活されたイエス・キリストが私たちに与えてくださる水は、私たちの魂の最も深い渇きと願いを満たしてくれるあふれ湧いてくる井戸の水なのです。

ヨハネによる福音書4章14節「しかし、私が与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る。」