2018年7月29日の説教要約 「福音のはじめ」

2018年7月29日の説教要約
   「福音のはじめ」   松木直人牧師(神奈川教区長)
<マルコによる福音書1:1>


マルコは、ペテロにとって「わたしの子」(Ⅰペテロ5:13)と言わせるほどに、親しい間柄でした。とはいうものの、彼は、ペテロのように、イエスの12弟子の一人ではありません。
弟子ではないマルコが、なぜ、イエスの生涯が書かれている福音書を書くようになったのかというと、ペテロが宣教に出る時、彼の通訳として同行していたからだと言われています。一介の漁師に過ぎなかったペテロが、他の国の言葉を話す人たちに、イエスのことを伝えるのは大変だったでしょうから、外国の言葉を巧みに話せるマルコがそばにいる事は、とても助けられました。2人が各地にある町や村を訪れ、ペテロがイエスについて話せば、マルコもその話を聞いて、同じように通訳としてイエスについて語ります。
彼らは何度も語るのですが、時間的にも、体力的にも限度があるのも事実です。彼らが語るイエスの話をもっと聞きたいという人が、たくさんいるのに出来ないでいる。彼らにすれば、こんなにもったいない事はないと思ったのでしょう。そうした時に、イエスという方が何をされ、何を話されたのか、どんな歩みをされたのかを、自分が話す以上に、よりたくさんの人に知ってもらうために、どうすれば良いのかと考えた時に、マルコは福音書を書き始めるのです。

マルコが福音書を書くようになったのは、ペテロとの関わりが大きかったのですが、また、マルコの母マリヤの影響もありました。それは、マルコの母の家が、聖書の中で時々出てくることがあるからです。たとえば、イエスと弟子たちでの最後の晩餐の時、2階の広間で行われましたが、その場所を提供したのが、マルコの母だといわれていますし、よみがえられたイエスが天に戻った後、弟子たちは一つの場所に集まって、祈りをしていました。そこでは聖霊降臨の出来事が起こりましたが、その場所もマルコの母の家だといわれています。
また、このことからもう少し考えを広げますなら、イエスや弟子たちという10人以上の大所帯を家に招き入れるわけです。かなり大きな家がマルコの家といえます。という事は、それなりに裕福な家だったのでしょう。そして、裕福な家ということは、十分な教育を受けさせる事もできますから、マルコは、それなりの教育を受けて、自分の国の言葉だけではなくて、他の国の言葉も話せるほどの教育を受けられた。それで、マルコにペテロに同行し、通訳としての働きの場が与えられるようになったと考えられます。

そうしたマルコが福音書を書き始めるのにあたり、最初に書くのが「神の子、イエス・キリストの福音のはじめ」なのです。私たちは、この言葉をどう受け止めたら良いのでしょうか。「イエス・キリストの福音」というと、イエスがこの地上で語り聞かせてくださった福音、イエスが成し遂げられた「喜びの知らせ」と考えます。確かに、この言葉をそう受け取って読み取ることは、まちがってはいないと思いますが、それだけでは、とてももったいないような気がします。
では、このみ言葉をどう考えたら良いのかというと、マルコの感想なのではないかということです。どういうことかというと、まさにここから福音が始まっているからです。イエスの福音がここから始まっている。福音とは救いです。私たちにとって、何よりの喜びの知らせは、イエスによって罪の中から救い出されたことです。神の子とされ、神のそば近くにいる者とされた。それが、何よりの福音です。その救いの御業が、今、イエスによって、ここから始められる。何百年、何世代にもわたって待ち望んでいた救いの御業が、今、ここから始められる。
そうしたマルコの喜びや期待いっぱいにあふれて、ワクワクするような思いが、このみ言葉にはあると思うのです。そして、さらには、この喜びの福音、救いの御業は、過去の出来事ではなく、今、この福音書を書き始める、マルコ本人も、その恵みにあずかっているし、また、この先も、この福音書を読む人たちの中からも、救いにあずかる人が起こされてくる。この言葉には、そうしたマルコの思いがあるように思えてなりません。

そして、この福音には終ってしまった過去のものではなく、続きがあって、今、私たちも受け継いでいるといえます。マルコが、ここで書き始めたイエスの福音が、この福音書の最後は、「弟子たちは出て行って、至る所で福音を宣べ伝えた。主も彼らと共に働き、御言に伴うしるしをもって、その確かなことをお示しになった。」という言葉で閉じられていて、実際のこの福音書の続きは、使徒行伝になりますが、その福音は、全世界に伝えられ、アジアの東の日本の神奈川の鵠沼にまで至っている。
この鵠沼教会での伝道がはじめられて、板倉先生が着任された、1947年から数えますなら、実に、71年を迎えています。創立何周年という時に、記念礼拝をしたりするのですが、「神の子イエス・キリストの福音の初め。」という今日のみ言葉から、鵠沼教会の歩みを考えますなら、マルコが語る福音書、この時から、すでに、鵠沼教会の歩みは始められていると考えることもできる訳です。イエスご自身が生涯を通して福音を始め、完成してくださり、マルコが福音書を書き残したことで福音が受け継がれ、私たちにまで届けられている。今日のみ言葉を、そのようにして私たちが読み、受け取ることも許されていると思います。

そして、また、私たちが毎週日曜の礼拝で開かれる一つ一つのみ言葉を、マルコが感じたのと同じような思いをもって「喜びの訪れ」として受け止め、その喜びを実感しますなら、そのみ言葉は過ぎ去った福音ではなく、今も、鵠沼教会に集う一人一人の中で生きた福音であること、この福音書によって始められた「神の子イエス・キリストの福音」が、今もなお、受け継がれていることを教える、何よりもの証拠であり、証しになるのではないでしょうか。