2019年8月11日の説教要約 「平和とはなにか?」

2019年8月11日の説教要約
        「平和とはなにか?」   エミリー・スミス宣教師
「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いを献げ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなた方の心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」
<フィリピの手紙4章6~7節>

今回は「平和について」のテーマを与えられました。自分にとってチャレンジングでエクサイティングなことでした。説教の準備をしながら平和とはなにか、についてたくさん学びました。中心聖句はフィリピの手紙の4章6~7節ですが、その前に聖書の他の箇所を開きながら話をすすめていきます。
1960年代には「喜びと愛と平和」というスローガンの運動がありました。政治の中では、ある国とある国が戦争状態にないことで、「平和」ということが言われます。
でも聖書の中で平和とはなにかを調べていくと、そんな単純なものではなく、「平和」というのは意味が本当に深くて、そこから引き出されるいろんな適用があるのです。
私たちは「平和」という言葉を聞いても、単にスルーしてしまうことが多い。それは「愛」ということばと同じです。「愛」とか「平和」とかは基本中の基本のことばです。でも御霊の実と言われる「愛、喜び、平和」というのがあります。これは基本中の基本で、大切な真理です。今日は平和とは何かを聖書のなかを旅するように発見していきたいとおもいます。

(1) 第一ポイントは、「平和」や「平安」が与えられても、周りの環境が変わる事はない、
ヨハネ福音書20章19~23節:弟子たちはなぜ自分たちのいるところの戸を閉めていたのか?恐れていたからです。
なぜ彼らはユダヤ人の指導者を恐れていたのでしょうか?なぜならユダヤの指導者たちは彼らの先生のイエス・キリストを殺したからです。先生が殺されたら次は自分の番だと思っていました。しかしイエスはそういう中に現れて、「平和が、平安があなたがたにあるように」と言ったのです。ここで、イエスがなさったことと、なさっていないことを学びます。イエスはなにをなさらなかったか?弟子たちが恐れていた宗教指導者をとりのぞくということをしなかったのです。「心配しなくて大丈夫」ともおっしゃっていない。そこに座って「大丈夫だから」とも言っていない。イエスが言ったのは「平安があなたがたにあるように」ということでした。
21節にイエスは重ねていわれた。「あなたがたに平和があるように。父が私をお遣わしになったようにあなたがたを遣わす」と。
この意味はなにかというと、ドアを開けて外に出かけていきなさい、です。周りの置かれた状況はなにも変わっていないのに、外に出ろ、というのです。彼らが恐れていた状況はなにひとつ変わっていないにもかかわらず。
多くの人が神を信じない、神の存在を疑うというのは、これと似たようなことで、神がいるならどうしてこんなことが起こるのか、何も変わらないじゃないかということです。
このような悪や、犯罪が満ちているのに神が存在すると言えるのか、神はそういう現実を目にとめておられないのか?私たちがどんな気持ちでいるのか、神様は感じ取っていないのか?私たちのことなんか心配していないのか?
いいえ、イエスは私たちの置かれた状況、私たちを取り巻く環境、全部よくご存じの上で、その真ん中にやってきて、「平安があなたがたにあるように」と言われるのです。
私たちを取り巻く悪の環境を取り除くのではなく、平和をあなたがたに与える。
私たちの目の前の困難な状況を解決したり、除くことをしないでも平和を、平安を与える。
カウンセリングを受けるときに、こういう教えがあります。たとえば誰かがあなたに対して憤っている、そういう人とどう接して、近づいたらよいか?それは同じ土俵にたたない、
彼らのボリュームのレベルと同じレベルで応対をしない、というのがひとつのテクニックだそうです。同じレベルで言い返したら、そこにはなんの解決もない。同じレベルで対話をしないで、自分はここで平安を保ちながらそういう人と接していると、憤っているひとのほうが、自分のボリュームを下げて少しおとなしく、静かになって、同じ位置で対話をしてくれる。
神様が私たちの置かれた環境を何も変えてくださらないというのは、神様の中にご目的や深い理由があるからなのです。なぜなら私たちの周りで叫んでる人もいるし、混乱をもたらす人もいるし、怒りをぶつけてくる人もいるし、でもなぜそれがそのまま放置されているのか、実は彼らの本心は平和を、平安を求めているからそうやってからんでくることがあります。私たちは神様から平和を与えられている唯一の人です。もちろん私たちも大声を出そうとおもえば出せなくはないのですが、でも私たちは彼らの叫びのレベルに自分たちを上げないで、イエス様のところに怒りをちゃんとおろしてそしてこのレベルにとどめておくと、私たちの接しているひとの方が少しづつ静かになっていく。私たちが平和をもたらすものという指名が与えられているとしたら、私たちが遣わされていく周りのこの世界、世の中というのは、カオス、混乱にみちているということを最初から自覚しておかなければならない。教会の皆様に御願いしたい。
みなさんが、自分の置かれた周りの状況、環境に何を感じ、どう思われるでしょうか?
神様は私のことなんか見ていないとおもいますか?わたしがこんなに苦しんでいるのに神様はちっとも私を顧みてくれない、とおもいますか?またなぜこの困難の中にわたしを放り込まれるのでしょうか、と思いますか?なんてこった!と叫びをしますか?
あるいは、神様、何故わたしなのですか?なぜ私を選ばれるのですか、とおもいますか?
これはよい質問です。なぜわたしがそこに置かれて、と問いかけるのは大切です。
なぜなら、あなたが持っているものはなんですか?彼らが持っていないのに、私に与えられているもの、私がもっているものはなんですか?そして私が持っているものを、どのようにして神様は私の周りの人に分け与えるでしょうか?私を通して。

(2) 第2ポイントは、平和について、です。
平和、平安というものは私たちの内側から作り出されるものではありません。
ガラテアの信徒への手紙5章:22~23節
平和、平安というのは御霊が結ばせてくださる実のひとつだということです。
御霊の実といっても、果物ではなく、聖霊が私たちに結ばせてくださる結果として出てくる「行い」の現れです。
食堂の前にある食べ物のイミテーション、これは日本の芸術で、私は大好きです。
御霊の実の愛、喜び、平和が、ショウウィンドウのケースの飾りのように素敵に形を整えているけど、よく見ると作り物であったりすることがありませんか?
聖書的に言えば、平和というのは神様が作り出してくださるので、私がだれかに気をつかって平和をもたらすことはできないのです。
ですから教会の皆様も同じようにこのことに耳を傾けてほしいのです。私たちが頑張って気をつかって、努力して人との人間関係をうまくするようにして平和をつくりだしてあげるということはできないのです。それは私たちがする仕事ではないのです。なぜなら本当の平和は聖霊によってつくりだされるからです。私たちは本物の平和は何かということを人々に示すことはできます。でもこれが本物の平和だよと言って作り出すことはできません。みなさんに解放されてほしいのです。日本人は周りの人に気をつかって関係を維持しようとしますが、それはあなたの肩に掛かっていることではないのです。自由に、楽になってください。イエス様自身がそのことを願って、あなたが負わなくてもよいよけいな重荷をおう必要はありません。例えばあなたの家族が、あなたの夫が、あなたの友達が神様に対してある怒りを覚えているとします。でもそれはあなたがなんとかする必要はないのです。あなたのせいではない。あなたの責任でこの悪いことがおこっているということはないのです。
コインと裏表の真理のもう一つは、平安は神様からくるのだから、わたしたちも周りの人のよい態度で、自分が平和であろうとは思わないでください。
「俺たちは同じ町や国に住む仲間なのさ」という表現が英語にはあります。
そのホントの意味は、表面上はニコニコしています。でも心の中では、憎み合っています。でも周りの人や君たちにここで怒りをぶちまけることはしないで、俺たちは家族で仲間なのだからと繕うのです。
そこからでてくる間違った考えがあります。心の中ではなんと思っていようと、表面的にはニコニコしていたらそれでうまくいく。それは間違いです。
平和は、2つの国が戦争しなければそれでよいのですか?それぞれが銃を持たなかったらそれでいいのですか?そういうことではありません。
目に見えない戦というか、葛藤というかがあります。私たちの心の中にも、目に見えない葛藤やバトルをもっている人がいるのではないか?ですから私たちと誰かの間に、目に見えない戦があることがある。声を荒げることはないけど、平和ではない。
「沈黙の美徳」などという表現がありますが、沈黙しているということが、実は無視するということがあります。
平和がない時、人々が黙ってしまう。沈黙は、「平和がない」という、ひとつの表現方法でもあるのです。
他の人に平和があるようと期待する以上にわたしたちが平和を持たなければならないのです。
なぜなら、平和は、聖霊によって私たちの中にもたらされるのであって、あなたの近くの誰かにによって平和が作られたり、保たれたりすることはないのです。
もし聖霊なる神様をあなたが心の中に迎え入れて、その聖霊なる神様があなたの心の中に平和を与えてくださったなら、もしかしたらその聖霊なる神があなたの一番接しにくいとおもっている人のところにあなたを近づけなさることもあります。
そしてその人と仲直りをするようにという導きを神様は与えるかもしれない。なぜなら神はそういうお方ですから。
よく神様を心の中に迎え入れましょう。その広い場所だけでなく、だれも入らないような秘密の部屋とか、押し入れのような場所にも神様をむかえいれましょう。
その時、神様はあなたを取り扱い、あなたを謙虚にされます。
簡単なことではないし、厳しいことでもあります。でもそうやって与えられる平安が義の実に勝る平和はありません。

(3) 第三ポイントは、平安は、ある行動を要求します。
フィリピへの信徒への手紙4章6~7節
思い煩う代わりに祈りましょう。そしてあなたが必要としていることを神様に告げましょう。そして感謝しましょう。それらの事々は、動詞です。だからするべきこととして書かれています。あなたがこれらのことをするならば、あなたは神の平安を経験します、とパウロは言います。
詩編の34篇でダビデは平和を求めています。
私たちが意図的に一生懸命求めなければ平安を得ることはできないことをダビデは知っていました。平和とは感覚や気分ではない。あなたが聖書に要求されている事々を行えば間違いのない平和がくるのです。
誤解の無いように、第2ポイントの要点を繰り返します。私たちが誰かの心に平安を作り出してあげることはできません。これらのことをしたら平和が来るとか、つくれるのではないのです。
しかし、神様の平和が訪れるような道、道路を作ることができるのです。それをパウロは、フィリピの手紙で述べるのです。祈りなさい、感謝しなさい、告げなさい。これらが私たちの行動であります。
神様の平和が私たちにやってくるような道を作らなければいけない。
この世の中のひとで心の中に平安や平和を持っていない人がたくさんいます。
それは神様が意地悪で与えないのではない、神様はすべての人に平安を与えたいのです。
しかし人々が心の中に神からくる平安をブロックする、とどめようとするものが、いっぱいあるのです。ですから神様がその人の心の中に平安をもたらすことはできないのです。
例えば不平や不満がいっぱいあったら、平和を神様はもたらすことはできない。
誰かと仲直りしたくないと言って、怒ったままの状態でいたらそこに神様は平和をもたらすことはできない。
へりくだることはイヤだと、頑固な心を持ち続けたらやはり神様は平和をもたらすことはできない。
平和、平安とは、神様がそこにいて下さることが平安なのです。
あなたの感情によっているのではない。
平和はイエス・キリストそのものです。神様が与える平安は聖書の言葉でいえば人事をはるかに超えた、私たちの理解を超えたレベルの平安です。
この悪に満ちた世の中にわたしたちはおかれている。この状況の中で神の平安がどのようにして私たちの心と思いを守ってくれるのでしょうか?どのようにしてでしょうか?
これはうまく説明ができないのです。
なぜ、まことの平安が私たちの心を守ってくれるのでしょうか?
それを説明しようとしているのではありません。
ああ、こういうたぐいの平安ね、とわたしたちが理解できるものだったら、私たちがそれを再生産できてしまうのです。でも神の平安は私たちが再生産できるようなものではないのです。
だから私たちができることは、「神様、あなたの平和、平安がやってくる道を作ります」これが私たちのすることです。
怒り続けるよりも許しを選ぶならば、不平不満を言わずいつも神様に感謝するならば、強がっているのをやめてほんとの弱い自分を素直に認めるならば、
そしたら神様、来てください、そして神様はきてくれるのです。私はそのとおりになると信じています。