2019年6月2日の説教要約 「善き業を始められた方」

201962日の説教要約

   「善き業を始められた方」   中道由子牧師

≪あなたがたの中で善き業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を   成し遂げてくださると、わたしは確信しています。≫

フィリピの信徒への手紙1章1~18節)

 

 

本日は洗礼式を持つことができました。私たちのうちに救いという良き業を始められた方が、主が再臨される時にその救いを完成してくださることを待ち望みます。

 

1、          最初の日から今日まで

 フィリピの教会は、パウロが第二伝道旅行の際に、この町で伝道したことから始まりました。

5節の「最初の日」というのは、パウロがフィリピで最初に伝道した時のことです。その時の様子は、使徒言行録16章に詳しく書かれています。そこでの働きはわずか数日でした。しかもパウロは、彼が占いの霊から解放した女奴隷の所有者たちに訴えられて、投獄されるという経験もしなければならなかったのです。

しかし、この伝道の結果、紫布の商人リディアや、パウロが投獄されていた牢の看守が救われ、家族も救われました。

この2つの家族がフィリピ教会の基礎となっていったのです。

また5節の「今日」というのは、この獄中のパウロを励ますために、フィリピ教会がエパフロデトに援助金を持たせて派遣した時です。パウロのフィリピ伝道を紀元49年、50年頃とすると、この手紙を記した紀元61年頃までの約10年の間に、フィリピ教会は福音を広めながら確実に成長してきました。

パウロにとってはどんなに嬉しかったことでしょう。

フィリピ教会が二家族の救いから始まり、力になってくれたパウロ、テモテ、シラスが去って行ってからも、獄中のパウロを物心両面で援助するほど成長していったのです。

 

2、          本当に重要なこと

パウロたちが委ねていったフィリピの教会も戦いがなく、簡単に成長していったわけではありませんでした。

パウロは9節、10節でこう語っています、「わたしは、こう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように。」

パウロがフィリピのクリスチャンたちのために祈る最大の理由はここにあります。

「重要なこと」の原語は、「違い」です。つまり、「真偽の違いがわかる」ことです。

バブルがはじける前、日本の金持ちが投資のために、海外の絵画をやみくもに買いあさりました。その中には贋作(がんさく)があったと言われています。素人にはそれが本物か偽物か見分けられなかったのです。信仰においても同じです。「本当に重要なこと」は何か、キリスト教と他の宗教や道徳との根本的な「違い」とは何でしょうか?

それはただ一つ、「キリストの十字架」です。

しかもその十字架は「私のための十字架」であり、「神様ご自身が必要とされた十字架」でした。神様の義、宇宙の存在の根本を支えるための十字架でもあります。

キリストの十字架がなければ、この宇宙の存在が揺るぐほどのものでありました。

神の義とは、そのような確かなものです。神は、ご自身の義を貫くためにキリストを十字架にかけてまで私たちの罪を赦してくださったのです。十字架はそれほど重要なものです。

私たちはこの神の愛を知り、キリストの十字架の贖いを信じた時、初めて心の目が開かれて「本当に重要なこと」とそうでないことの「違い」がわかるのです。

 

3、          パウロの喜び

 12節でパウロは「わたしの身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったと知ってほしい。」と言っています。

 日本は現在信教の自由が保障され、あらゆる種類の宗教が混在しています。

言葉を変えれば日本ほどすべての宗教に寛容な国はないのです。

 キリストが十字架にかかられ復活された後、教会はエルサレムを中心にクリスチャンの数を増していきました。しかし、キリスト教最初の殉教者ステファノの死と共に教会に対する迫害が起こると、キリスト教エルサレムを離れて、ますます広がって行きました。平和で社会が宗教に寛容であるから盛んになるのではなく、逆に迫害によっていっそう前進したのです。

 パウロの場合も同じです。パウロが自由に伝道できなくなって福音の前進は妨げられたのかというと、まったく逆なのです。かえって彼の入獄が、福音の前進となりました。

 ところが、1517節を読むと奇妙な感じがします。ここには二種類の伝道が書かれています。

「キリストを宣べ伝えるのに、ねたみと争いの念にかられてする者もいれば、善意でする者もいます。」

「ねたみと争いの念にかられて」伝道するってどういうことでしょうか?

キリストの十字架の意味も解き明かさず、キリストを「自分の利益のため」にする伝道です。このような伝道があるなんて信じられないことですが、パウロの伝道を妬んで、パウロが投獄されているのを、これさいわいと、自分たちの勢力を伸ばそうとする人たちがいるということです。

ここでの「争い」を口語訳では「党派心」と書かれています。「党派心」とは、元の意味は、報酬をもらって仕事をするということだそうです。報酬のために働いていると、本来の仕事のためにしなければならないことを、その仕事以外の目的のために、自分の利益のためにしたりする。ここで、自分がしている動機が、純真な心であるのかどうかということが問題です。つまり伝道が目的ではなく、自分が得することが目的になっているということです。

ある神学者の方は、ここを「いろいろ混ざった目的のため」と訳しました。動機がひとつではなかったのです。目的がずれて神のためではなくなってしまった。

パウロはそれでも、福音が伝わっているのだから喜んでいると言っています。

あの人のあのやり方はどうかと思う、あの人の動機は違う、と思っても神様がその人を用いているとすれば、それでいい、パウロはこだわらないのです。

私たちもそうありたいです。

パウロはコリントの信徒への手紙一922,23節で

「弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです。すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです。

福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。」と言いました。

それがパウロにとっての喜びであったからです。

自分にとって受け入れられない信仰の在り方があるかもしれない。しかし、根底にイエス・キリストによる十字架の救いがしっかりあるなら、その福音が伝えられていくことこそ私たちの喜びとなる。本当に重要なことに、イエス様の十字架と復活に目を注ぎ、福音の前進を私たちの喜びとさせていただきましょう。