2023年3月12日の説教要約
「レント(四旬節)」 中道善次牧師
≪信心のために自分を鍛えなさい。体の鍛錬も多少は役立ちますが、信心は、この世と来るべき世での命を約するので、すべての点で益となるからです。≫
(テモテへの手紙一 4章7節後半~8節)
マタイ福音書 4章1~2節
教会暦では、今年は2月22日からレントが始まっております。
レントが始まる日は水曜日で、灰の水曜日と呼びます。
灰を被るとは、聖書では悔い改めを意味しております。
歴史をさかのぼると、「灰の水曜日」は、重罪を犯した人がその罪を告白して悔い改めをする勧めがそのルーツだったようです。
レントの語源を調べてみました。
レントは、英語でLentと綴ります。もとは、ゲルマン系の古いドイツ語で断食を意味する言葉であります。
また、ラテン語系では、違う言葉が使われております。それは40を表す言葉です。Quadragesima です。
断食と40を合わせたものが、四旬節といわれるレントであります。
まず、レントの数え方ですが、イースターからさかのぼる40日間であります。しかし日曜日、つまり、主の日は祝いの日なので、除きます。そのようにして計算すると、イースターから46日前です。
1、レントの40日間
レントは、lentと英語でつづります。また、fast day、(断食の日)とも表現します
もとは、受洗志願者の準備のようでありました。
イースターに洗礼式が行われる。その前に教育を受ける。断食をして、お祈りをする。最初は、1日か2日かだったようですが、それが教会会議を経て長くなりました。
40が、試みの時であり、断食の時であることが分かります。
しかし断食と言っても、レントの時に一般的になされるのは、部分断食です。特に肉を食べないことです。
次に何故、40日なのか。
期間は40日と定められているのは、イエスが荒野で40日間断食されたことに基づいている。
荒野の40と関係がある聖書の物語は、イスラエルの民の荒野における苦難の40年間であります。
これらのところから40という数字が、試みの時として理解されるようになりました。
渡辺善太という説教者また神学者は、次のように聖書を理解するのです。
イエスの荒野の40日間の断食は、聖書の歴史、イスラエルの荒野での失敗の踏み直しである。
イスラエルは、荒野の40年間、罪の誘惑に負けて、文句を言い、つぶやき、不信仰の罪を犯し、約束の地に入ることができませんでした。
イエスはイスラエルの荒野の誘惑に負けた失敗の歴史を踏みなおす必要がありました。荒野で犯した罪を贖うために、40年間を40日間として、荒野で断食をし、悪魔の試みに勝利したのであります。
また、試みや試練を表す40という数字に新しい意味を加えた牧師がいます。それがハ・ヨンジョ牧師です。
人生の荒野といえる40年間(30~70歳)は、荒野であると同時に人生の黄金期です。何故なら、その40年間に子どもを産み育て、家庭を築く。仕事の面では、実績を積み重ね、人々からの信頼を得てゆく。そのような達成感があるのが、30歳から70歳までの40年であります。
人生の荒野、試練を通過していると思われる私たちの人生が、同時に人生の黄金期であり、祝福を受けるときである。
2、福音書の受難物語
特に、マタイ、マルコ、ルカの三つは、共通した物語が多くあるので共観福音書と呼ぶのであります。
新約聖書の順番ではマタイから始まっておりますが、学者たちの研究により、マルコ福音書が最初に書かれた福音書であるといわれております。
福音書を書いたマルコは、最後の晩餐で二階座敷を提供したマリアの息子で、聖書ではヨハネ、あるいはヨハネ・マルコと呼ばれています。彼は若いころ、パウロの伝道旅行について行ったのですが、途中で身勝手な行動をとり、一人エルサレムに帰りました。身勝手な行動をしたので、パウロからダメ出しを食らいました。そのマルコを引き受けて育てたのが使徒ペトロでありました。
ペトロは、ヘロデ王の迫害から奇跡的に救出されました。その後、ローマに行き、そこで教会の牧師となります。しかしガリラヤの漁師であったペトロは、当時のローマ帝国の公用語ギリシャ語を話すことができません。そこで通訳として活躍したのがマルコでした。ペトロはやがて迫害を受け、殉教します。残されたローマ教会の信徒たちは、マルコに願ったのです。マルコさん、ペトロ先生のメッセージをもう一度聞かせてください。通訳をしていたマルコは、ペトロのメッセージを全て記憶しておりました。そしてそれが一冊の本になりました。それがマルコによる福音書であります。
そのマルコ福音書の成り立ちは、受難物語であるといわれます。
イエスの受難物語がマルコ福音書の中で、どのぐらいの割合を占めているか調べてみました。
イエスがエルサレムに入城したのが、日曜日です。そこから受難週が始まりますので、そこから、マルコ福音書全体に占める章の割合を調べました。
マルコ福音書の受難週は、11~15章であります。マルコ福音書は16章ありますが、16章は短いです。
全体の1/3が受難物語であると言えます。232節です。
しかも、受難週の物語で、特にイエスの受難のクライマックスとなる14章15章は長いのです。
受難のピークである14章は、72節。15章は46節あります。118節。受難週の物語の半分を、十字架にかかる直前から、十字架、埋葬のストーリーが占めているのです。
マタイ、ルカは、マルコの受難物語を参考としております。
マタイ福音書の受難のピークである26章は75節、27章は66節あります。141節
ルカ福音書の受難のピークの22章は71節、23章は56節あります。127節
これらの長さからわかるように、受難のピークの物語はマルコに基づいているのです。
福音書とは、イエスの生涯を描いた伝記ではない。イエスの教えを書いた教訓集でもない。福音書は、名前のごとく「福音」が書かれているのです。それはイエス様が私たちの罪のために十字架にかかることであり、三日目によみがえることであります。福音書は、イエスの受難がメインとして語られ、書かれているのです。
福音書の中の受難物語を、このレントの時期にお読みになることをお勧めいたします。
3、信仰のための自己訓練
第三のこととして、レント、40日間の節制について、いくつかのことをお勧めしたい。
イエスが荒野で40日間断食されたことが、レントの40日であったとお伝えしました。
カトリックの方は、お肉を食べないようにしております。
OMSの宣教師の一人は、プロテスタントの信仰者でありますが、レントの時期を大切にし、自分はこの時期に甘いものを食べないようにしていると言いました。
それらの部分断食ということがあります。
それと共に、信仰のための自己訓練をお勧めしたい。
荒野を40年間歩んだイスラエルは、信仰の訓練を受けました。それは毎朝、食料であるマナを集めることでありました。マナは、日が昇るととけてしまったので、朝早く起きなければなりません。また、安息日にはマナは降りませんから、その前の日に二日分を集めなければならないのです。
ここから私たちが、信仰のための訓練として大切なことは、毎日、霊の糧である御言葉を集めることであります。
また荒野を歩んだイスラエルは、安息日の前に、二日分のマナを集めた。そして安息日には煮炊きをしないように準備をしたのです。私たちにとっては礼拝を守る日を大切にすることであり、その前の日から準備をすることであります。
1テモテ4:7~8(協会共同訳) 「敬虔のために自分を鍛えなさい。体の鍛錬も多少は役に立ちますが、敬虔は、今と来るべき時の命を約束するので、すべてに有益だからです。」
敬虔とは、神様を恐れ敬う心であり、態度であります。
そのための訓練、習慣と言ったらいいでしょうか、パウロはそのことを勧めております。
パウロがテモテに伝えたもう一つの経験の訓練が、1テモテ6:6~8です(協会共同訳)「もっとも、満ち足りる心を伴った敬虔は、大きな利得の道です。私たちは、何も持たずに世に生まれ、世を去るときは何も持ってゆくことができないからです。食べる物を着る物があれば、私たちはそれで満足すべきです。」
パウロがここで述べようとしている敬虔は、お金の使い方であると思います。
現代は消費文化であります。ほしいものがあれば、すぐに買う。ほしいものがあっても、すぐに買わない。レントが教える自己訓練の一つではないでしょうか。
これらは宗教の義務ではありません。私たちが与えられた時間をちゃんと管理できるかどうか。自分自身をちゃんと保ってゆけるかどうか。そして与えていただいたお金を正しく使うことができるかどうか。
つまり、私たちの幸せの為なのです。
このレントの季節、どこの部分でもよいのです。私たちの人生を見直すときとしたいと思います。