先週の説教要約 「信じる道」

○先週の説教要約
『信じる道』                       上中栄牧師
《一方、パウロはシラスを選び、兄弟たちから主の恵みにゆだねられて、出発した》。
使徒15:36−41)
愛と平和を説くキリスト教が、なぜ戦争をするのか。しばしばキリスト者でない方から投げかけられる問いですが、何と答えますか。戦争するキリスト教ではなく、イエス・キリストに目を留める、であるとか、それこそが人間の弱さ、という答えが繰り返されてきましたが、どこか言い訳に聞こえます。
これは、パウロの第2回目の宣教旅行開始時のエピソードです。第1回目の宣教旅行の際、途中で帰ってしまったマルコを連れていくかどうかで、パウロバルナバの《意見が激しく衝突し》、別行動をとるに至りました。なぜ宣教に出かけようという人が仲違いしたのか。本当の理由は別にあるとか、結局はパウロが正しかった、といった解釈がありますが、やはり言い訳に聞こえます。
後にパウロは、マルコは《務めをよく助けてくれる》と評していますから、彼らの関係が断絶したわけではなく、それぞれが真剣だったのでしょう。それにしても《衝突》とは穏やかではありません。
《激しく衝突》とは、新約聖書に2回だけ用いられている言葉で、もう一か所では、互いに愛と善行に励むよう《心がけ》よと訳されます。つまり真逆のニュアンスを伝える珍しい言葉なのですが、人間のありのままの姿を伝えているとも言えます。争うのが人間であり、争うのが教会なのだ、ということです。
そもそも言い訳をしたくなるのは、そうした現実を覆い隠し、信仰や教会の理想の姿を保ちたいと思うからです。しかし現実を直視せずに理想を掲げても、自分や周りの人にプレッシャーをかけるだけです。キリストの十字架による罪の赦しは、人間の罪の現実のただ中で起きる、神の救いの業です。
なぜ愛と平和を願いつつ争うのか。答えは容易に出ませんが、道は開かれます。《主の恵みにゆだねられて、出発》しましょう。