2024年8月18日の説教要約
「み言葉の力」 中道由子牧師
《そこで、イエスは一緒に出かけられた。ところが、その家からほど遠からぬ所まで来たとき、百人隊長は友達を使いにやって言わせた。「主よ、御足労には及びません。わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。」》
(ルカによる福音書7章1~10節、8章22~25節)
1.言葉の権威
信じるということは、対象となるお方を信頼することです。
その背後におられる、み言葉をくださったイエス様を信じるということです。
皆さんの周りにも、いろんなことを任せてお願いできる人がいらっしゃると思います。
それが、信頼でしょう。しかし、信頼していると言いながら、少し心配になることはないでしょうか?
神様は徹底して信頼して間違いがないお方であることを、この百卒長のお話から今日学ぶことができます。この百卒長は、言うまでもなくユダヤ人ではなく、ローマ皇帝に仕えている異邦人です。
でも、彼はイエス様に対する信頼を強く持っていました。
彼は、ユダヤ人のために会堂を建て、貢献していた人だったのです。
その百卒長の家で働いていた部下である「しもべ」が、病気になり死にそうになりました。
しもべとは奴隷のことですが、代わりがいればよいというような存在ではなくて、この百卒長にとって頼みにしていたしもべだったのです。
彼は、イエス様がカファルナウムに来ておられることを知って、イエス様にお願いすれば、道が開かれると思いました。
でも、彼はローマに仕えている異邦人でしたから、自分から行くのはためらわれたのでしょう。
そこで、長老たちに頼んでイエス様に来ていただくようにお願いしてもらったところ、長老たちも熱心にイエス様にお願いしてくれました。
イエス様が頼みを聞き入れて、家の近くにまでお出でになると、百卒長はまた別の使いを遣わし、6節「主よ、ご足労には及びません。わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。」でも7節「ひと言おっしゃってください。」と軍隊の命令の話を伝えました。
自分の上には千人隊長がいる。その隊長が命令すれば、私も動く。
そのまた上にはローマ皇帝がこうしろと、言えば、命を捨てて従う、それが兵隊というものだ。
そして、「イエス様、あなたはローマ皇帝以上のお方、あなたの言葉にはローマ皇帝以上の権威があります」と、その信仰に立って、「ただ、お言葉をください。そして僕をなおしてください。」とお願いしているのです。
み言葉で十分と百卒長は信仰をもった。その時、この部下は、僕は癒やされたのです。
「神様との白紙の契約書にサインをする」というお話を聞きました。
そこには、どのように導かれても私はあなたに従います、という献身と信仰が必要であると。
主のみ言葉が与えられたら、そのみ言葉に従う。
主は、私たちにとって最善以下のことはなさらない、という信頼があるからです。
2、恐れから解放する言葉
ジョン・ウェスレーは、アメリカで宣教師の働きをするために、大西洋を渡っている時に、激しい嵐に遭いました。200年以上も前のことで、大変粗末な舟であったために、彼は沈むのではないかと非常に恐れました。
ところが、その乗客の中に、とても静かにお祈りをしている人たちがいました。モラビア兄弟団の人たちでした。
ウェスレーはその時に、クリスチャンであるにもかかわらず、死んだらどうなるのだろうとうろたえている自分を発見したというのです。そのことがあって、彼はよりいっそう真剣に神様を求めるようになり、やがて非常に深い経験を持ったと言われています。
人間にとって恐れは、なかなかコントロールすることが難しいものです。
ここで、イエス様は、「湖の向こう岸に渡ろう」と言われ、弟子たちと一緒に舟に乗られました。
その船の中で、イエス様はぐっすり眠ってしまわれました。
イエス様も船の中に一緒に乗り込んでいるからには、怖い目に遭うことはないと思うかもしれませんが、そんなことはおかまいなしに嵐は襲いかかりました。
弟子たちは、どうしたでしょうか?
近寄ってイエス様を起こし、「先生、先生、おぼれそうです」と言ったのです。
主は熟睡しておられても私たちの助けを求める声に目を覚まし、立ち上がってくださいます。
25節で「あなたがたの信仰はどこにあるのか。」と弟子たちを叱られました。
イエス様の関心は、嵐ではなく、弟子たちだったのです。
彼らには、目に見えるところの嵐が大きく、恐ろしかったのです。
そして、「神様は私を捨てられた。」、「神様は眠っておられる。」、「神様は私には関心がない。」と思ってしまいます。しかし、実はまったく逆です。
私たちが苦しみ、絶望に陥っているときこそ、神様は最も近くにおられます。
イエス様は、風と荒波をお叱りになり、問題を解決して下さいました。
イエス様はなぜ、風と荒波を叱ったのか?
恐れは、私たちからいろんなものを取り去ってしまいます。
平安な気持ちがなくなります。そして、信じるという思いがだんだん薄らぎ、疑い深くなる、臆病になる。それだけではなく、恐れがひどくなると迷信を信じるようになる。
イエス様は、「わたしの言葉を誰に奪われたのか。わたしが、あなたがたの心に植え付けた言葉を誰かに取られてしまうような、愚かなことをしたのか。」とお叱りになられたのです。
イエス様は確かに人間の体を持っておられましたから、私たちと同じ環境に置かれました。
けれど、その環境に支配されるということがなかったのです。
私たちは、そのイエス様と一緒に人生の船に乗っていることを忘れてはいけません。
このお方が一緒でなければ、どんなに良いことばかりの人生のように見えても不安だらけです。
でも、イエス様が一緒であれば大丈夫。
その人生の嵐をどのように受け止め、どのようにみ言葉によって勝利するか、なのであります。