2024年7月7日の説教要約
「四つの幸い、四つの不幸」 中道由子牧師
《さて、イエスは目を上げて弟子たちを見て言われた。「貧しい人々は、幸いである。神の国はあなたがたのものである。」》 (ルカによる福音書6章20~26節)
1.貧しい者の幸い、富んでいる者の不幸
世間の人がうらやむ人とは「富める人」です。
ところが、お金持ちに対して、キリストは「不幸だ」と言われる。
それは、24節「あなたがたはもう慰めを受けて(しまって)いる」からだというのです。
天国の喜びや希望を心に思うこともなく、ひたすら、過ぎ行く地上の幸福だけを追求している者は不幸だ、と言うのです。
主が言われる「幸せ」とは、私たちが考える「幸せ」ではなく、「神の御目から見た幸せ」です。
そして、その基準は、「この地上」ではなく、「神の国」のものであります。
マタイによる福音書の「山上の説教」の「心の貧しい者は幸いである」に対して、ルカによる福音書の平野の説教でははっきり、「貧しい者は幸いである」と言っておられる。
謙遜であるとか、心の問題ではなく、物質的な問題です。
その貧しさの典型として16章に登場する、金持ちの玄関の前に座っていた「ラザロ」の話があります。ラザロは、決して功徳を積んだわけではなく、ただ貧しかっただけです。
その貧しさの中で、ただ神の救いに預かったのです。
欠けていたから慰めていただいた、それだけです。
神様を求めないと生きていけない状態、そこに主は降りて来てくださるのです。
2、飢えている者の幸い、満腹している者の不幸
25節「今満腹している人々、あなたがたは不幸である。」
今満腹している私たちは、キリストのこの言葉を忘れてはならないと思うのです。
今はむしろ、食べ過ぎによる病気が増えています。これは主の目には、不幸なことでしょう。
いつの日か、米や麦の不足だけではなく、キリストの命のパンが不足する時、聖書の言葉によって生かされることの大切さを思い知るのです。
私たちは断食すると力がなくなり、弱くなるので、神に頼るしかない魂をもって祈るわけです。
でも、おなかが空いていますから、祈りに集中できるまで時間がかかる。食べることに、頓着が無くなる状態にならないと祈れないでしょう。
断食祈祷された方が書かれた証しで、「断食することによって、どれだけ自分が食べ物に支配されているかが分かる。食べることばかり考えている。そして、初めて飢えている人の体と心の状態を理解する」と証しされています。飢えている人たちに対する憐れみの心が深くなるのです。
3、泣いている者の幸い、笑っている者の不幸
私たちはできるだけ笑って人生を過ごしたい。ですから、この言葉は受け入れにくいでしょう。
ここで聖書が言う悲しみは、その悲しみは、霊的な罪に関わる悲しみです。
イスラエルの初代の王であったサウル王とダビデ王の罪の悔い改めを見ると明らかです。
①サウル王の悔い改め
アマレク人との戦いで主によって聖絶しなさい、との命令に従わず、良いと思える者を残しておいた。そして、そのことをサムエルに責められると、主の供え物にするために取っておいたのだと言い訳をしたのです。神様はサウルを王として選んだことを後悔されました。
しかも彼の悔い改めはこうです。
サムエル記一15章30節「わたしは罪を犯しましたが、どうぞ、民の長老たち、およびイスラエルの前で、わたしを尊び、わたしと一緒に帰って、あなたの神、主を拝ませてください。」
自分の面目のために悔い改めている、こんな悔い改めがあるでしょうか。
神様は「ごめんなさい。」と祈りさえすればいつでも罪を赦してくださるから、と。
これをチープグレースと言います。
②ダビデ王の悔い改め
ダビデの罪はサウルに比べると道徳的にはもっと悪質でした。
家来ウリヤの妻と姦淫の罪を犯し、彼女が妊娠するとウリヤを戦いの最前線に送り殺して、その妻バテシェバを自分の妻にしたのです。預言者ナタンがこの罪を指摘すると、ダビデは「わたしは主に罪をおかしました。」と告白します。
王の権威によってナタンを殺すこともできたのに、自分の罪を神の前にも人の前にも公にして隠しませんでした。
詩篇51編はダビデの罪の悔い改めと罪の嘆き、罪の赦しを歌っています。
「神よ、わたしのために清い心をつくり、わたしのうちに新しい、正しい霊を与えてください。」
私たちは自分の罪を罪と認めたくありません。誰かのせいにしたり、弁解したいのです。
しかし、本当の自由は罪を認め、罪を心から嘆きながら告白することです。
主は私たちの内に新しい創造の業を行ってくださいます。
自分の弱さ、醜さ、罪の重さに泣く、赤子のような心の人を主は喜んでくださり、人生に起こっている悲しい出来事の中で神の国の祝福を注いでくださいます。
4、憎まれる者の幸い、褒められる者の不幸
これまでの「貧しいもの」「飢えている者」「泣いている者」は弱い人々のようだ、だけどこの「キリストのゆえに人々から憎まれる人」とは、キリストを信じるということにおいては、頑固で譲らないのか、妥協できないのかと非難されることもあるかもしれません。
それは、主を愛し、主が私たちのために命を捨てるほど愛してくださった愛を知っているからです。クリスチャンの歩みの本質は、イエス様が受けられた苦難にあります。
しかし、イエス様は、苦難が決して呪いや敗北ではないことを教えてくださいます。
主イエスを信じる信仰ゆえに、家族や学校や職場で孤立していると感じることがあるかもしれません。主はあなたの近くにおいでくださり、「幸いなことよ」とお声をかけてくださいます。