イースタ礼拝・永遠の命をもつ

「イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる」
                            (ヨハネによる福音書11:25)
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。
独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」
                            (ヨハネによる福音書3:16)

イースターおめでとうございます。
主のよみがえりを記念する礼拝です。


主イエスが十字架で命をささげられ、よみがえられたのは、
私たちが自分のためにではなく、私のために死んでよみがえってくださった方のために生きるためです。
キリストにつながれている人は、永遠の命を持って生きる者とされています。


誰も避けえない死の絶望に向い合い、この問題を克服することは人類史上の大きな課題です。
「永遠の命」というと不死不老や霊魂不滅などを考える人もありますが、
聖書の伝える永遠の命とは、肉体は死んでも霊魂は死後も生きるというような霊肉別々の死後の命ではありません。
なんと聖書は、たとえ肉体が生まれて命があっても、神とつながっていなければ、私たちは死んでいるような者だと言っています。
霊の命が、新しく生まれなければ真に生きたものとなってはいません。


エスは言われた。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。
わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。
                                        (ヨハネ6:53,54)
主イエスの肉を食べ、血を飲むとは衝撃的な表現ですが、主イエスが十字架上で肉を裂き、血を流して私を救ってくださったことを信じることを指します。
ヨハネは、信じるとはただ頭の中で理解することではなく、
飲食によって食物が身体に取り込まれて自分の命になるような、親密でリアルな命の関係を持つことだと伝えています。

キリストは、罪あるままでは神と断絶して命を持たない私の身代りに十字架にかかり、罪の罰を受けてくださいました。
十字架がわたしのためであったと、罪を悔い改めて神に立ちかえる人は、神との命の関係が回復されています。


キリストは、「わたしは復活であり、命である」と御自分を顕わされました。
生き方を説かれたのではなく、命そのものである御自分の全てを死ぬべき存在である私たちに与えられました。
私たちは罪赦されて、命の主によって生きる命・永遠の命を持つ者とされています。


キリストに結ばれる人には、キリストが死んで葬られ3日目によみがえられたように、
神の霊によって私たちの内に永遠の命が働きます。
たとえ肉体の死が訪れても神と共に生き、やがての時には復活の身体が与えられ、よみがえらされます。


マルタとマリアの弟・ラザロは、病気で死んで4日もたっていました。
姉のマルタに主イエスは、「ラザロは復活する」と告げられ、
「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。
わたしを信じる者はだれも決して死ぬことはない。このことを信じるか。」
と言われました。
彼女は「信じます」と答えました.
けれどもマルタは、主の言葉の真意を理解してはいませんでした。
主イエスが、「墓石を取りのけなさい」と言われると「4日もたっていますからにおいます」と主の業を遮りました。
目に見える現実に絶望し、主イエスがどのようなお方なのかが見えないでいました。

人々が石を取りのけ、主イエスが祈って「ラザロ出てきなさい」と叫ばれるとラザロは布に巻かれたまま出てきました。
「ほどいてやって、行かせなさい」とイエスの言葉がかけられました。


まさか、私にはそんなことが起こるはずない、あの人には無理だというように、
私たちの心を重く封印する石のような不信が動かないままでは、神の命の業は体験できません。

死に勝利された命の主が、私たちの内に生きておられます!
重く大きな石があるならば取りのけ、神の業に与りましょう。
罪と死の束縛を解かれ、清々しく主を仰ぎたいと願います。
永遠の命を持つ喜びをもって復活の主を讃美いたします。


  


講壇の花
美しい白百合が飾られています。
白は「純潔」「貞操」を表す色とされています。
           復活を記念して香るような花に思いを寄せて・・・