先週の説教要約 「十字架の愛」

○先週の説教要約
『十字架の愛』                      上中光枝牧師
《父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです》。(ルカ23:32−38)受難節、主イエスの愛を思いながら過ごすときです。主イエスが私たちに示してくださったのは、敵対する者を赦し、最後の最後まで見捨てることのない命がけの愛でした。主イエスは十字架の上で、神に背く人々を神に執り成して祈ってくださいました。
主イエスを訴えた人々は、不正な裁判によって、イエスを十字架にかけました。自分こそが正しく神を敬っているのだと言い張りながら、ねたみのために神が遣わされた救い主を十字架につけたのです。取り囲む群衆も十字架につけろと叫びました。
二人の犯罪人が、主イエスと共に十字架につけられるために引かれていきました。自分の人生の最期が、自分のしたことの責任を追及され、死刑を宣告されるものであったなら、どんなに絶望的であろうかと思います。判決は自分の力ではくつがえせないものです。
十字架の苦しみの中で嘲りの言葉を受けながら、主イエスは《父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです》と祈られました。神は、ご自分に背く民を愛し、主イエスを人の救いのために遣わされました。キリストは神と人との間に立ち、罪の贖いの生贄として御自身をささげられました。主イエスの十字架は、命をかけた執り成しだったのです。
主イエスの贖いの死によって、罪は赦され、罪を悔いてその救いを仰ぐものは罪なき者であるかのように扱われます。自分が何をしているのかわからなかった人が神との正しい関係につなぎ直され、自分の生きるべき道を見出すのです。命をかけた執り成しの愛があるから、人生の失敗もすべての終わりではありません。
さらに、主イエスの執り成しによって赦された人は、赦しの愛に生き、人を執り成すものとされています。十字架の愛は、人を造り変え、和解をもたらすものとして新しく生かすのです。