先週の説教要約 「主イエスのまなざしの中で」

○先週の説教要約
『主イエスのまなざしの中で』                上中栄牧師
《主は振り向いてペトロを見つめられた。ペトロは、「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われた主の言葉を思い出した》。(ルカ22:54−62)レンブラントの「聖ペテロの否認」という絵は、女中や兵士の視線にさらされ困惑するペトロの表情が、巧みに描かれた光によって浮かび上がる名作です。
「人目」は、私たちも気になるものですが、このときのペトロは、捕らえられた主イエスの様子を見ようと人混みに紛れたのですから、人目は避けたかったに違いありません。しかし女中はペトロを、《目にして、じっと見つめ》ます。似た言葉を重ねることによって、聖書はその凝視の様子を伝えています。
そこに言葉が加わります。《この人も一緒にいました》。しかしペトロはすぐに打ち消します。さらに別の人が《あの連中の仲間だ》、主イエスと《一緒にいた》と迫ります。よく考えなければならないのは、「神が共におられる」とは、聖書が一貫して伝える祝福のメッセージであることです。しかしここでは、それがペトロを窮地に追い込んでいるのです。人間の都合で、神の言は祝福にも邪魔な物にもなる、人間がいかに自分本位であるかを思わされます。
たまらずペトロは、主イエスのことを3回とも否認しますが、主が言われた通り鶏が鳴きます。主が《ペトロを見つめられ》ると、ペトロは主の言葉を《思い出し》ました。それは自分の弱さを思い知らされる言葉であると同時に、《立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい》という励ましでもありました。主イエスの十字架の死と復活はそのためであり、主イエスを信じるとは、自分の罪深さを知って悔い改める者が、新しい生き方に招かれることなのです。
さて、レンブラントの絵には、冷たい視線ばかりでなく、離れたところで振り返り、ペトロを見つめる主イエスの姿が描かれています。暗いのでその表情までは分かりません。そのためか、主のまなざしは、絵を見ている者に向けられているようにも見えます。主のまなざしは、私たちにも注がれているのです。