あめんどう(アーモンド)の枝のお話し 

 主の言葉がわたしに臨んだ。「エレミヤよ、何が見えるか。」
わたしは答えた。「アーモンド(シャーケード)の枝が見えます。」主はわたしに言われた。「あなたの見るとおりだ。わたしは、わたしの言葉を成し遂げようと見張っている(ショーケード)。」
                                   (エレミヤ1:11,12)  新共同訳聖書

*「アーモンド」は、口語訳聖書では「あめんどう」でした。


15日に思いがけず、つぼみを膨らませた「あめんどうの枝」をいただきました。

2015年1月、イスラエル旅行中にエルサレム近くで桜の花を見かけました。
イスラエルにも桜の花が咲くのか…!と驚いて、ガイドの柿内ルツ牧師に「桜の花が咲いていました!」とお伝えしました。
すると、ルツ先生は「まあ!もうあめんどうの花が咲いていましたか!」とお答えになりました。
「あめんどうの花って…あめんどうの花って…あのあめんどうの花ですか?」(口語訳聖書ではあめんどうとして親しんでいました)
「はい、あのあめんどうの花です。エレミヤ書に出てきますね。あめんどうとは、アーモンドのことです。
イスラエルでは、春1番に咲くので、春の訪れを告げる花です」
「ああ、そうなんですか。感動です!」この花との出会いが嬉しくてドキドキしました。


エレミヤは神の言葉を預かって人々に伝える働きに召された時、
「わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者にすぎませんから」と尻込みしました。
そんなエレミヤに神はアーモンドの枝の幻を見せて「わたしはわたしの言葉を成し遂げようと見張っている」語られました。


見張るという意味のヘブル語:ショ-ケードと、目覚めるという意味のヘブル語:アーモンド(シャーケード)が韻を踏み、対になっています。季節が確実に移り、花が咲くように、神の語られた言葉・神の計画は必ず実現します。
神は全ての造られたものの動きと内面とを見張っておられます。
私たちの神はいつも見ていてくださる神、共にいて私たちを守り、全ての歴史を導かれる神です。アーモンドの枝の幻は「救いはわたしがするのだ。一緒に見なさい」との神よりの呼びかけとも言えるでしょう。
エレミヤは、目覚めて神の業の始まりに気づき、神と共に救いの計画の実現を見張るものとして、神に立てられたのでした。アーモンドの木はこの他、アロンの杖としても聖書に登場しています。(民数記17:23)


この話を心に留めておられた友人牧師が、伊勢原の農産物直売所であめんどうの枝を見つけて、わざわざ車で届けて(飛んできて!?)くださいました!こんな近くにあめんどうの花が咲いていたなんて驚きです。
「わたしは、わたしの言葉を成し遂げようと見張っている」
答えがわからず先の見えない祈りの課題に心が塞がれていましたが、「目覚めよ、わたしだ」との神の声を聴いたようです。
「ああ神の時に、御業は必ず現れる…!」目が覚めるように確信と希望が湧いてきました。


今日は棕櫚の主日です。受難週が始まりました。
講壇には、次々と花開いたあめんどうの枝が飾られました。(ホームページMenuの下に写真掲載)
目覚めて、主イエスの受難と復活によって完成した救いを深く思い巡らせたいと思います。
そして、今、日常の中に進んでいる神の業に目を開かれ、目を留めたいものです。  上中光枝