先週の説教要約 「パラダイス」

○先週の説教要約
『パラダイス』                       上中栄牧師
《はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる》。(ルカ23:39−43)
鵠沼は塀に囲まれた家が多いですが、工事で塀がなくなると、見慣れた風景の中に新鮮さを感じます。《楽園=パラダイス》は、「塀に囲まれた庭、王宮の庭園」を意味します。一般には理想の世界と理解されますが、旧約聖書では「エデンの園」を指し、理想ではなく人間が本来いるべき場所を表します。罪を犯した人間は園を追放され、隔てが設けられました。ですからイザヤは、救いは《荒れ野をエデンの園と》する、つまり本来の姿に戻ることだと言います。
確かに人間は、本来の自分は幸せであるべきだと考えます。病気を治し、痛みを取り除き、悩みを解決し、苦しみを乗り越え、争いを避けようとします。信仰はそのためにあると考えることもあるでしょう。しかし、一所懸命頑張って進学し、就職し、結婚し、財産を得ても、何をしていいか分からないのが人間の姿でもあります。十字架につけられた主イエスの周りの人々は、異口同音に「メシアなら自分を救え」と罵りました。自分が思い描く神の姿・理想と異なる主イエスを、人間は十字架につけたのですが、それは《何をしているのか知らない》からだと主は言われました。私たちも自分の人生ばかりでなく、神、教会や牧師、家族、知人、社会や環境が思い通りにならない時、焦ったり不機嫌になります。十字架の周りで迷走する人々は、私たちの姿でもあるのです。
ところが、主イエスと一緒に十字架につけられ、主を罵っていた犯罪人の一人の心が変化します。死罪を宣告された罪人でありながら、死の間際であっても救いに目が開かれたのです。神と人を隔てる塀によって、楽園は罪人の目に隠されています。しかし、主イエスが人間の罪を負って十字架につかれたことによって、神と人との間の隔てはなくなり、《楽園》が明らかにされたのです。
神の救いは近くにあり、私たちも《楽園》に招かれています。隔てが除かれると、見慣れた生活の風景の中に新しい神の恵みを見出すことができるのです。