先週の説教要約 「希望のあいさつ」

○先週の説教要約
『希望のあいさつ』                     上中栄牧師
《すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。》。(マタイ28:1−10)
生後すぐに召された娘の葬儀で父である牧師が司式をなさり、「やがてこの子と、天でおはよう!と挨拶する時が来る」と、復活の希望を語られました。
聖書には、復活された主イエスが、女性たちに《おはよう》と言われたと記されています。《おはよう》という訳はこの一か所なので、珍しい言葉にも見えますが、原語のギリシャ語では、新約聖書に70回以上用いられている、普通の挨拶の言葉です。元の意味は、「喜びなさい」です。ですからここには、恐れるな、伝えなさい、そして喜びなさい、と三つの勧めが記されており、これらがイースターのメッセージだと言うことができます。
ところが、少し調べてみると、主イエスが捕らえられる場面で、イスカリオテのユダは、主に《先生、こんばんは》と言って接吻します。この主イエスを捕らえる合図の挨拶が、ギリシャ語では同じ言葉なのです。喜びを促す言葉が、主イエスを裏切る合図に使われたのです。ぞっとするようなことですが、人間の底知れぬ闇を見る思いがします。しかし、まさにこの人間の罪を負って、主イエスは十字架で死なれたのでした。そして復活された主が《おはよう》と挨拶されました。それは、罪深い人間に喜びをもたらす希望の挨拶です。
さて、冒頭で紹介した牧師は、葬儀では気丈に振る舞っていました。信仰によって、試練を乗り越える姿とも言えるでしょうが、なかなか納骨できないという便りが今も届きます。しかし、これが人間の真実だと思います。私たちの信仰は、決して悲しみをかき消したり、やせ我慢を強いたりするものではありません。私たちが試練に遭うことは避けられませんが、私たちは信仰によって、苦しみや悲しみと向き合うのです。復活の希望が、弱い私たちを支えるのです。私たちも互いに、希望の挨拶を交わしましょう。