先週の説教要約 「心が燃える」

○先週の説教要約
『心が燃える』                       上中栄牧師
《道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか》。(ルカ24:13−35)
「春から始める新習慣、まずは一日10分から」。これは小学生向け新聞の広告の文句です。大人も負けずに、キリスト者であれば聖書に親しみましょう。
さて、これは何人もの有名画家が描いている、エマオへ向かう二人の弟子と、復活の主イエスが同行されたという物語です。この物語の鍵語が《聖書》です。エルサレム・エマオ間の距離は約11キロ、歩いて2時間半ほどです。この間に、主は旧約聖書全体から、《御自分について書かれていることを説明され》ました。主イエスによる救いを読み取るのは、旧約聖書の読み方のポイントです。また、主イエスの話しは簡潔だったのでしょう。弟子たちも予め聖書の知識があったから、主イエスの説き明かしを聞くことができたということです。
しかし興味深いことに、《二人の目は遮られていて》主イエスに気づきませんでした。共にいてくださる神に、気づかないのが人間なのです。二つ目の鍵語は、この《遮られ》です。エマオに着いた三人は宿に入り、食卓を囲みます。主イエスがパンを裂かれると、二人の《目が開》きました。これらは同じ言葉で、「調べる・認識する」という意味です。しかも受け身ではありません。つまり、目を開いてもらったのではなく、自ら目を閉ざし、自ら気づいたのです。
きっかけは、主がパンを裂かれたことです。それは、最後の晩餐で主が語られた新しい契約、すなわち主イエスによる救いの約束です。私たちも聖餐に与る時、神の恵みを期待するなら、この救いに目が開かれます。
聖書を読む習慣をつけましょう。すぐに分からなくても良いのです。弟子たちも《心は燃えていた》と分かったのは後のことです。しかし、受け身で読むのではなく、神の救いを尋ね求めましょう。み言葉を心に蓄え、神の恵みに対するアンテナを張っていれば、神が共にいてくださることが分かるのです。