「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、
御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。」
(ヘブライ人への手紙5:7)
今週の子どもの礼拝の説教は「ゲッセマネの祈り」でした。
キリストの苦しみというと十字架上の苦しみを思い浮かべますが、
十字架の前には、ゲッセマネで苦しみもだえて祈られる姿が記されています。
キリストは何を苦しまれたのでしょう。
子どもの頃、死ぬのが怖いと感じていました。
いつの間にかあまり考えなくなりましたが、やがて死が間近になるとまた死が現実的になるなど、
私たちは、人生サイクルの各場面で死と向い合います。
人間関係においてさえ人から無視されたり、見捨てられているように感じることは大きなマイナスです。
キリストは死の本当の恐ろしさ、神との断絶の恐怖を最も知っておられました。
私たちは、罪による神との断絶・死がどれほど恐ろしいものであるのかに無感覚になるほど罪に汚染されています。
キリストは神に捨てられて当然である私たちの身代りに十字架にかかられました。
キリストの命がけのとりなしによって、死ぬべき私たちがキリストに在って生きるものとなっています。
キリストの死ぬべき者の側に立ちきった激しい叫び、涙の祈り、内なる苦しみがあって救いは成ったのです。