先週の説教要約 「互いに仕え」

○先週の説教要約
『互いに仕え』                       上中栄牧師
《神の言葉をないがしろにして、食事の世話をするのは好ましくない》。(使徒6:1−7)
北海道の林に置き去りにされた少年が、6日ぶりに発見されました。親への同情や、虐待という批判が交錯しましたが、どのように思われたでしょうか。
さて、ここは教会内のコミュニケーションがうまくいかず、食事の配給に差があるという訴えがあったという場面です。ペトロが上記のように語り、奉仕者を選任しました。実はこの《ないがしろ》という言葉には、「置き去り」という意味があります。私たちは、神に見出されることはイメージしやすいですが、ここでは逆で、《神の言葉》を置き去りするのはよくないというのです。
また《ないがしろ》は、日本語では軽く見るという、比較するようなイメージになりますが、聖書では「置き去り」のほか、「離縁・死別」とも訳される言葉で、比較ではなく分離です。神の言葉と食事の世話の分離です。私たちは、性格や出身地や血液型などでも、類型が好きですから、神の言葉と食事を分けると、聖か俗か、信仰か仕事か、牧師か信徒か、といった線引きをしたくなり、どっちが良いか悪いかと考えるようになります。
しかしこれは、線引きでも比較でもありません。どちらも大事なのです。選任された奉仕者たちが食事の世話をしたという記録はなく、それどころがステファノもフィリポも伝道し、神の言葉を語っています。ですから、使徒たちの《祈りと御言葉の奉仕に専念する》というのも、世俗の仕事を区別したり、軽く見ているのではありません。優先順位や自分の役割をわきまえ、《”霊”と知恵》によって互いに仕えるのです。教会でも家庭でも職場でも学校でも、神から託された務めを担い、神の言葉を置き去りにしない生き方があります。
私たちを罪の中から見出し、主の十字架の死と復活によって救ってくださった神は、私たちを置き去りすることはありません。ですから私たちも、それぞれの生活の場で、神の言葉を置き去りにせず、神の恵みのうちに歩みましょう。