先週の説教要約 「従うべきもの」

○先週の説教要約
『従うべきもの』                    上中栄牧師
《神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください》。
使徒4:1−22)
ペトロは、議会で主イエスの名によって語ることを禁じられると、神と人のどちらに従うことが正しいかを、《考えてください》と訴えました。これは「判断・判決」の意味ですから、立場が逆転しています。
私たちは、弱者が権力や既成概念に立ち向かう姿に好感を抱きます。そして《神》を自分の良心に置き換え、社会のルールや常識に従わないことに、正義を感じたりします。しかしそれは、自己中心と紙一重ですから、文字通りよく《考え》る必要があります。あるいは、信仰者であれば、教会や自分自身の歩みが神に従っているか、自分の思いを優先しているか、自問が必要な時もあります。その際も、《考え》るのは大切なことです。
ここでペトロたちが対峙しているのは、議会という権力です。私たちの身近なところでも、選挙や憲法の問題など、権力との関係が問われます。その際、目先の利害や、「権力者はけしからん」という方向に話しは流れやすいのですが、権力は民衆が気づかないように影響力を行使しますから、注視が必要です。
さて、《考え》るとは裁判の用語です。聖書で最も重要な裁判は、主イエスの裁判ですが、なぜか主イエスの死刑の決定にこの言葉は使われていません。唯一、ローマの総督ピラトがユダヤ人議会に、自分たちの律法で《裁け》と言う場面に出てきますが、議会は、自分たちには死刑の権限がないと言って、主イエスの死刑をピラトに求め、彼はその声に従います。つまり、人々が《考え》ることを止めた結果が、主イエスの死だったのです。聖書が語る罪は、盗んだ・殺したということに限らず、何に従うべきか《考え》るのを止めることです。しかし、主を信じ従うことを選ぶなら、権力に立ち向かったペトロのような生き方ができます。自分自身と周りを見渡し、よく《考え》、主に従いましょう。