先週の説教要約 「み言葉にゆだねる」

○先週の説教要約
『み言葉にゆだねる』                   上中 栄牧師
《そして今、神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねます。この言葉は、あなたがたを造り上げ、聖なる者とされたすべての人々と共に恵みを受け継がせることができるのです》。(使徒 20:25−35)
これは「ミレトスの別れ」と呼ばれる場面で、エフェソの教会の長老たちに告げた、パウロの別れの言葉です。パウロという指導者がいなくなる教会は、やがて外からの迫害、内からの腐敗という事態に直面する、その時、み言葉に根差して自分たちの歩みを考えていかなければならないというのです。
み言葉は、イエス・キリストの十字架の死と復活によって実現した、神の救いを告げます。それは罪深い人間には耳当たりの良い言葉ではありません。しかし罪赦された者は、《造り上げ》られ、《恵みを受け継》ぐのです。《造り上げ》とは建築用語です。建築には様々なプロセスがあるように、救いに与った者は、み言葉を聞いて成長していきます。そしてその恵みを、周りの人や次の世代に《受け継》ぎます。そのようなみ言葉の聞き方が、求められるのです。
24時間流れ続けるチャリティー番組があります。良い企画もありますが、感動の押し売り的要素が強いと思っていたところ、某公共放送が同番組のパロディを流していました。身障者が何かに挑戦する姿を映して感動を呼ぶのは、身障者を利用するだけの「感動ポルノ」であり、身障者自身は不快だというのです。感動しやすい自分の感性について、考える必要があるでしょう。震災ボランティアの際や、戦時下の体験を聞く時にも似た思いを抱きます。人は感動する自分に感動したがる傾向があり、その結果真実が見えなくなるのです。
もっと言えば、聖書を感動的に語る説教は人に喜ばれます。しかし、恵まれると称する感動ばかり求めると、心を探られる言葉を聞き逃します。感動が悪いのではありません。み言葉を聞いた者は《造り上げ》られ、《恵みを受け継》ぎます。み言葉の感動は、このような出来事になります。パウロは、試練を予感しつつも、み言葉に対する確信を語りました。正しくみ言葉に聞きましょう。