先週の説教要約 「神の癒し」

○先週の説教要約
『神の癒し』                       上中 栄牧師
《イエスガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた》。(マタイ4:23−25)
四重の福音の三つ目は「神癒」です。いわばホーリネスの専門用語です。今時、癒しなど非科学的と一蹴されがちですが、聖書には癒しの記事が思いのほか多く記されています。一般的にも「○○の癒し、○○セラピー」と言われるように、癒しの概念は広くなりつつあります。そもそも聖書では、人間を「霊・魂・体」と理解していますから、癒しもトータルなものなのです。ちなみに「セラピー」の元の言葉は、ここで《いやされた》と訳されているギリシャ語です。
さて、聖書の《いやし》という言葉は、福音書使徒言行録に集中しています。つまり、癒しの出来事が報告されていますが、パウロもペトロも癒しについて論じていないのです。それは、癒しだけに関心があるのではなく、《教え、宣べ伝え、いやされた》と要約されている主イエスのお働きと福音に深く結びついているからです。キリストの十字架と復活によって、人の罪は赦されます。これが福音であり神の救いですが、それは心の問題だけではなく、人の全体に関係します。実際、主イエスの周りに集まった、癒しなどのご利益だけを求める人は、やがて去りました。最近、災害ボランティア参加者が少ないとか、憲法問題などに関心が集まらないと聞きます。こうした事柄に無関心で、心の問題や癒しだけを求める思い、あるいは障がいや病を抱えながらも、明るく強く生きるキリスト者の証しを聞いて、「頑張っている人たち」と評する感覚では、福音や人間の全体を理解できません。癒しについて自問する必要があります。
癒しとは救いなのです。パウロは、肉体の《とげ》が去らなくても、神の恵みは《十分》であり、神の力は弱さの中で発揮されると語り、ペトロは主イエスの十字架の《傷によって、あなたがたはいやされました》と語っています。聖餐に与るたびに、神の癒しの恵みに生かされていることを覚えましょう。