先週の説教要約 「キリスト者の完全」

○先週の説教要約
キリスト者の完全』                   上中 栄牧師
《だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい》。
(マタイ5:43−48)
四重の福音の二つ目は、教団の名称でもある「聖化」です。キリスト者が与る恵みで、「きよめ」などの呼称がありますが、「キリスト者の完全」はメソジストの創始者ウェスレーが語った言葉で、上記の聖句はその根拠の一つです。
さて、《完全な者となりなさい》と言われて、これは恵みだと思えるでしょうか。そう聞こえないことには理由があります。完全であれ、というのは、私たちが人に対して抱く思いです。家庭や職場、学校、さらには教会においても、私たちは人に多くのことを求めます。その一方で、人から求められるのはあまり好きではありません。人の要求の多くは、あなたはOKではないと、否定的に聞こえるからです。この聖句は、どのように響くでしょうか。
大切なのは、求められているのは完全無欠な人間像ではなく、神との関係で語られる《完全》です。これは一見すると、神のようになることを求められているように読めます。しかしよく考えてみると、人間からかけ離れた存在である神と、人間を並べるのはナンセンスな話しです。そうではなく、その神が人間にかかわって下さることが驚きなのです。神がかかわってくださる、それはまさに救いです。愛敵の教えを実現できない罪深い人間を、キリストの十字架と復活によって完全に救ってくださったのです。ですから、求められる完全は、品性や行いの問題ではなく、神の救いを受け取れ、完全に救われよ、という呼びかけです。はじめからそう語られれば分かりそうなものですが、先に申したような傾向を持つ人間は、救いについてよく考えなければなりません。
そうすれば、できないことを求め・求められるのは恵みではないと分かります。完全ではない者が、神に完全と見なされる。その恵みに与った者は、自分自身と隣人の完全な価値を見出します。隣人愛はそこから生まれるのです。