先週の説教要約 「主を待ち望む」

○先週の説教要約
『主を待ち望む』                      上中栄牧師
《平和の神御自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように。また、あなたがたの霊も魂も体も何一つ欠けたところのないものとして守り、わたしたちの主イエス・キリストの来られるとき、非のうちどころのないものとしてくださいますように》。(Ⅰテサロニケ5:23−24)
四重の福音の最後は「再臨」です。少し前の「終末」は「時」を意識した言葉ですが、「再臨」はキリストの到来を意味します。共に「終わり」に関係する言葉で、世の終わりや死などの不安を連想させます。しかし、病気の痛みや人間関係に悩む人が、医者に治療されたり、人と和解できればその悩みは「終わり」ます。同様に神の恵みに生きる人間にとって、終わりとは救いなのです。
しかし、終わりが近いといって働かなくなったり、キリストの到来が遅れて落胆したりした、最初期の教会に対して、テサロニケ書は励まし合い、勤勉であるよう勧めます。なぜでしょうか。例えば、音楽の基礎は「静寂」であると説いた音楽家がいます。「音」の前後にある静寂が音楽の基礎というのは意味深長です。人間の生も、誕生と死という言わば「静寂」が前提であり基礎です。
その「終わり」を人間が恐れるのは、死が罪の結果であるからです。キリストの十字架の死と復活による救いは、人間の罪を赦し、その生き方を変えます。つまりキリストを信じる者は、新たな希望に生きることができるのです。
そして真の希望を持つ者は、未来を見据えるからこそ、完成途上の未完成である現状を受け入れ、現在の生き方を肯定的に捉えます。人間の願いや悩みは尽きず、現状に対する不安や不満も尽きないものですが、そこに意味を見出し、前進するのです。それはキリストの恵みのゆえに、自分を受け入れ、他者を受け入れることでもあります。勤勉で励まし合って歩むのは、そのためです。
ここには《聖なる者》、《霊も魂も体も何一つ欠け》ない、《キリストの来られるとき》と、四重の福音の要素が並びます。この充分な恵みに与っている私たちは、キリストの到来を待ち望む希望に生きることができるのです。