先週の説教要約 「聞くに早く、語るに遅く」

○先週の説教要約
『聞くに早く、語るに遅く』                 上中栄牧師
《愛する兄弟たちよ。このことを知っておきなさい。人はすべて、聞くに早く、語るにおそく、怒るにおそくあるべきである》。(ヤコブ1:19−25)
人は聞いた以上のことは話せず、学んだ以上のことは教えられず、受けた以上のものは与えられません。ここでは《聞く》ことの大切さが語られています。
聞くに《早く》、語ることと怒ることは《遅く》とあります。この時間の順序は、優先順位を表します。興味深いことに、この先で《汚れ、悪》を捨て去るよう勧められていますが、そこに《怒り》は含まれていません。つまり、人間が怒ることは否定されていないのですが、優先順位があって、自分でその感情を管理し、コントロールしなければならないということです。
そのために、汚れや悪を捨てるのに対し、受け入れるべきは《御言葉》です。《言葉》とは音声にとどまらない出来事を指します。自分の心や感情を管理できず、罪を犯すのが人間です。イエス・キリストの十字架の死と復活は、そうした人間を救うための神の御業でした。御言葉を受け入れるとは、この救いを信じることであり、信じる者には、救いが実現し、出来事となります。《御言葉は、あなたがたの魂を救うことが》できるとは、そのような意味です。
救いは神の御業です。しかし、それを信じるか、受け入れるかどうかは、人間の信仰と主体性にかかっています。ですから、《御言葉を受け入れなさい》とは、キリスト者が自らの心を管理し、神の恵みで心を満たせという勧めです。
そしてヤコブ書の鍵語である《御言葉を行う人になりなさい》と続きます。御言葉は《自由をもたらす完全な律法》ですから、恵みで心を満たしたならば、それに伴う生き方があるというのです。それは特に、《舌を制する》とあるように、自分が語る言葉とも関係があります。つまり隣人愛という行為は、慈善活動ばかりでなく、人を生かす言葉を語ることです。救いの言葉をよく聞き、救いの言葉を語りましょう。それがキリスト者の証しであり、信仰の行いです。