先週の説教要約 「いのちの流れ」

○先週の説教要約
『いのちの流れ』                     上中光枝牧師
《わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる》。(ヨハネ7:37−39)
仮庵祭の最後の日、大切な儀式の中で、主イエスは《渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい》と大声で人々に呼びかけられました。
人は神との関係がなければ、渇いて枯れていく存在です。渇きを自覚し、渇きを癒す主イエスを信じるならば、神と人との関係が回復し、神の命につながれます。信じる人は、その内から神の命が川のように流れ出すというのです。《内》とは「胎」を表す言葉が使われています。命を宿し育む場です。人の深くには、神に対して開かれた霊的な交流の場が与えられています。神との断絶、激しい魂の渇きに気づくなら、主イエスに求めることができます。
主イエスは、井戸の水を汲みに来たサマリアの女性にも《わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る》と語られました。この女性は、愛を求めて夫を次々と変え、神とも人とも真実な関係を持たず、渇いていました。
主イエスはご自分から、渇いているわたしたちのもとに来て、人の罪の身代わりに十字架についてくださいました。主イエスは、息を引き取られる間際、《渇く》と言われました。神に捨てられ、神と断絶した人の渇きを負われた叫びです。罪は赦され、信じる人に神の霊が注がれました。主イエスにつながる人は、永遠の命につながれ、神の愛の通りよき管とされているのです。
わたしたちの地上での歩みは、天を目指す旅です。やがて、天で神の住まいに共に住み、永遠に神と共に生きます。聖書の最後の黙示録にも、《渇いている者は来るがよい。命の水が欲しい者は、価なしに飲むがよい》と、渇いているものへの招きが記されています。救いが完成する時、わたしたちは完全な神との関係によって命につながれ、もはや渇くことはないのです。