先週の説教要約 「主イエスの十字架と復活」

○先週の説教要約
『主イエスの十字架と復活』                上中 栄牧師
《最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと》。(Ⅰコリント15:1−5)
召天者記念礼拝は、故人を偲ぶと共に、私たち自身の生と死に向き合う時です。ここでパウロが《最も大切なこと》と言い、教会もまた《大切なこと》として伝えているのは、キリストの死と復活です。《死》が信仰の中心なのです。
フリーアナウンサーが、家族について語っていました。子どもの頃、姉が病死したそうですが、死の間際、「親はクリスチャンだったので、病床の姉に『お前は死ぬんだ』と言ってたと思うんです」と話していました。本当は天国の希望などを語ったのではないかと、勝手に想像するのですが、「クリスチャンは死を語る」と言われて、本当にそうか?と考えこんでしまいました。病気の告知は、信頼関係、覚悟などさまざまな配慮が必要な、難しい問題です。それほどの思いをもって、キリストの死と復活を《大切なこと》として語っているか、聞いているか、と思わされました。
キリストの死は、事故死や病死ではなく、十字架の死です。それは《わたしたちの罪のため》の死です。キリストの十字架は、感傷的あるいは劇的に語られることも多いのですが、《大切》なのは、自分の罪を自覚することです。そして、キリストが罪と死に打ち勝って復活されたと信じ、罪が赦されたという救いを体験することです。
日本では、家族への伝道もなかなか難しいですが、キリスト者が遺した言葉によって、教会に通い信仰をもったという人は多くいます。《信仰によってまだ語っています》という聖書の言葉がありますが、教会での召天者記念は、そうしたメッセージに耳を傾ける時でもあります。信仰の継承です。《最も大切なこと》を受けた私たちもまた、大切な福音を伝える者でありたいと願います。