先週の説教要約 「たましいの安息」

○先週の説教要約
『たましいの安息』                    上中光枝牧師
《わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる》。(マタイ11:28−30)
律法学者たちやファリサイ派の人々が《背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない》(マタイ23:4)様子を主イエスはご存知で、《疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう》とおっしゃいました。人は病苦や経済的な苦労など様々な人生の重荷を負っていますが、ここで重荷とは、「〜してはならない」「〜すべき」という律法主義の重圧です。誰も自分で自分を義とし、自分で自分の救いを達成することはできません。

≪休む≫とは次の働きのためにリラックス、リフレッシュすることです。《休ませてあげよう》とおっしゃった主イエスは、何もしないで楽になるのではなく、わたしの軛を負ってわたしに学ぶなら安らぎが得られると語られました。軛は、2頭1対の役獣が農耕や運搬のために首にかける器具です。軛は、過酷な圧制や圧迫をあらわすこともありますが、本来は力を効率的に使って、仕事を促進させるために使います。また、連帯や組み合わせを表すこともあります。誰と軛を共にするのかパートナーが重要です。

主イエスは、公生涯に入られる前は大工として働いておられました。大工は仕事のない時、軛職人として働くそうです。軛職人は、牛のことを良く知っていて、身体のサイズや、身体能力、体調や動きのくせに合わせて丁寧に働きやすい軛を作ります。少しでも傷つくと仕事ができなくなるからです。主は、わたしたちにピッタリな軛を備え、一緒に働こうと招かれます。自分一人で勝手に担ぎ込んだ荷を主のもとに降ろし、主イエスと軛を負います。共に働かれる主は、最もよく私たちの力を引き出されます。
主イエスは、力と権威をもっておられながら、力の行使をすることなく御心に従い、神と人とに低く仕えて歩まれました。わたしたちの罪を負って十字架にかかり、命がけで罪の束縛から救い出してくださいました。この方と共に働きながら、主イエスの思い、十字架の愛に学ぶ時、わたしたちはその愛と一つにされて、魂の深くに安らぎを得るのです。