先週の説教要約 「終わりに備える」

○先週の説教要約
『終わりに備える』                     上中栄牧師
《目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから》。
(マタイ25:1−13)
「たとえ明日が終わりの日でも、私は今日、リンゴの木を植える」。宗教改革者ルターに由来する言葉で、終わりを意識しつつ、今日なすべきことをするという意味です。教理の最後は「終末」ですが、終末と言うと「いつ・何が」に関心が集まりがちです。本来は「終わり」を見据えた生き方に関係します。「終わり」とは世の終わりだけでなく、卒業、転任、定年、そして死など、人生にはさまざまな終わりがあります。終わりを見据えて「今」を生きるのです。
このたとえは、ユダヤの婚礼を題材とした備えの勧めです。花婿の到着が遅れたが、賢い花嫁はランプの予備の油をもっており、愚かな花嫁は持っていませんでした。同じように、キリストによる救いに与った者は、その完成を目指しますが、終わりの時は分かりません。だからこそ、備えるのです。
さて、終末に関して「悲観的終末論」と呼ばれる考え方があります。この世は全て過ぎ去るのだから、教会の使命は伝道だ。私たちが遭遇する問題は全て人間の罪が原因なので、全て福音が解決する、と考えるのです。すると、例えば人の悩みに関心があり、解決策に福音を持ち出してもその原因まで考えないため、結局人の気持ちを理解できない、あるいは政治や社会の問題に深入りしない、さらには祈っていれば何とかなると思うようになるのです。問題を深く考えない分、その答えに持ち出す福音の理解も浅薄なものになってしまいます。いわば信仰が、思考停止を助長するのですが、これは備えではありません。
花婿の到着の遅れは、終末は人間の尺度では測れないことを意味します。ですから備えるとは、《賢》く生きることです。待っているのは祝宴ですが、備えなければ裁かれることを正しく知り、自分を律するのです。賢いおとめでも眠ることがあります。しかし備えていれば、祝福に与ることができるのです。