2019年5月19日の説教要約 「終わりの日に備えて」

2019519日の説教要約

         「終わりの日に備えて」  中道善次牧師

申命記34章1~8節>

 

インターネットで調べると、終活の一般的な意味は、「自らの人生の終わりに向けた活動」の略語で、自分が亡くなった際の葬儀、お墓、遺言の準備や、財産相続、身の回りの生前整理などを行うことを指します。

今日は、信仰者としての人生の終わりの迎え方、備えについてお話ししたいと思います。

 

    終わり方は神が決める

クリスチャンが死ぬとき、「召される」という言葉を使います。

では、誰がどこに召すのでしょうか。私達の命をつかさどっておられる神が、私達の人生の終わりを決められるのです。神の御許に召されるのであります。

私たちの地上の生涯の終わりを決めるのも神様であります。ですから神様の召しがある時に、私達はこの地上を去るのであります。

モーセは、まさに神に召されたのであります。

34:5  主の僕モーセは、主の命令によってモアブの地で死んだ。

平たくここを読みますと、120歳になって、天寿を全うして死んだと理解できるのですが、ユダヤ外典の中に「モーセ昇天記」という書物があります。その書物の中からの引用がユダ書にあります。

ユダ 9 大天使ミカエルは、モーセの遺体のことで悪魔と言い争ったとき、あえてののしって相手を裁こうとはせず、「主がお前を懲らしめてくださるように」と言いました。

田豊先生の旧約聖書講解では、次のような解説があります。

『神がモーセを葬って、その墓を知る人がなかったのは、たぶん後世の人がモーセを崇拝して偶像化することがないよう、その屍が隠されたのであろう。これはユダヤ人の伝説であるが、エノクが生きたまま天に移されたように、モーセは死後よみがえらされて、天に移されたと思われる。キリスト変貌の時、山の上でモーセとエリヤが現れたのはそのためであったと言われている。』

モーセが天に昇ったかもしれないと言う考えがあるのです。

生きたまま天に引き上げられる、それを昇天と言います。

息を引き取って、神様の元に召される、それを召天と言います。

初代のクリスチャンは、そのままの姿で天に引き上げられることを願い、信じておりました。

テサ1 4:16 すなわち、合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降って来られます。すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、

テサ1 4:17 それから、わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げらます。このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります。

私たちが、どのような最後を迎えるか、分かりません。しかし大切なことは、終わりは神様が決めなさるのです。神様が私たちに、「こちらに来なさい」とお声をかけて下さることが大切であります。

 

    手放す大切さ

クリスチャンの終活の第二のことは「手放す」事であります。違う言葉で言うなら、諦める、委ねる、献げると言うことであります。

モーセは、死の備えとして、後継者を指名しました。それはヨシュアでありました。

リーダーシップをヨシュアに明け渡すという終活は潔く出来ても、モーセには一つ未練があったのです。それは、約束の地を見たい。約束の地に足を踏み入れたいということでした。

モーセがそのように願ったときに、神様は「お前は十分足りている」と言われたのです。

申命記3章23~26節です。

私たちが、終わりを迎えるときに、大切なことは、満足することです。主にあって生きてきた人生は十分であったと思うことです。もちろん人間ですから、あれができなかった。これがやりたかった。そのような側面があるでしょう。しかしモーセの最後から私たちが学ぶことは、手放すことです、委ねることです、満足して感謝することです。

 

    死ぬときにも主に従う

34:5には、「モーセは主の命令によって死んだ」とあります。

良く一般に、生きたように死ぬと言われますが、まさに、モーセは生きたように死んだのです。

モーセの生き方の典型を示す箇所を一ヶ所紹介します。

7:10 モーセとアロンはファラオのもとに行き、主の命じられたとおりにおこなった

モーセは、その生涯を通じで、一回のミスを除いて、「主の命じられたとおりに行った」のです。

そして人生を閉じるときにも、主の命によって、主に従って、この地上を去ったのであります。

私達が、神のおっしゃることに従う人生を送るなら、死は、神にお従いする人生の最後のステップであります。

 

    キリストの花嫁となる

第四番目のクリスチャンの終活です。それはキリストの花嫁になることです。

34:5の「主の命令によって」というヘブル語を、ある人は「口づけ」という言葉とも理解できるというのです。

FBマイヤーの本には「あたかも全能なるお方が忠実な僕モーセの魂に口づけし、その魂を甘美で優しい長時間の抱擁に引き戻されたかのように」とこの箇所を理解するのであります。

私達がそのように神様に愛され、その口づけをもって、さあいらっしゃいと、神の御許に召されてゆくとしたら、それはどんなに幸せなことでしょう。

男性の方より、女性の方の方が「キリストの花嫁」という言葉はピンと来ますが、男性もまたキリストの花嫁となるのです。

私たちクリスチャンとしての終活の課題、それはキリストの花嫁とならせていただく。そのようにイエス様をお慕い申し上げる気持ちを、さらに強く持たせていただきたいのです。