先週の説教要約 「揺るがない平安」

○先週の説教要約
『揺るがない平安』                    村岡貞海牧師
<わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても死ぬにしても、私たちは主のものです。>(ローマ14:7−9)

エスキリストは弟子たちに現れる時、シャーローム・平安があなたがたにありますようにと挨拶されました。シャーローム・平安・慰めには深い関わりがあると思います。
ハイデルベルク信仰問答にただ一つの慰めと書いてあります。困難と試練の中であっても、疑いや恐れがある時でも、教会はただ一つの慰め、揺るがない平安が与えられました。
三位一体の神様を信じ、信頼することで信仰は揺るがないものとなりました。
主イエスキリストが十字架において、私たちの罪を完全に贖ってくださいます。父なる神様は私たちの髪の毛も落ちることができない程に私たちを守っておられ、神のご計画に働く者と共に働き、万事を益に変えてくださいます。聖霊によって永遠の命を保証され、心から神様のために生きるように導いてくださることによって、神様を信頼して平安が与えられるのです。貧しい人にお金が与えられたり、病の人に癒しが与えられば一時的な平安はあると思いますが永久な物にはなりません。
ルカ12:16〜、ルカ16;19〜お金持ちは誰よりも平安であるように見えるがそれは一時的な物でした。
詩篇23編は良く暗唱される所です。主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。…
死の陰の谷を行く時も、わたしは災いを恐れない、あなたがわたしと共にいてくださる。
使徒パウロは試練と迫害と飢えと多くの苦しみがありましたが、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものですと告白します。このことを不安な現実であっても忘れない時、私たちは揺るがない平安が与えられます。
鵠沼教会の祈祷会で証しされた、カンボジア宣教師の顔には深い傷がありました。救いを祈っていた友人による、傷でしたが毎日鏡を見る度にイエス様の十字架の傷跡を思い出し、主の慈しみを思うようになったそうです。その後20年間公務員として働きつつ、神学の学びを終え、安定的な職場を辞めて、中高生の子供を連れて家族でカンボジアの宣教に行きます。宣教師家族に与えられた平安は、長き準備の過程でも揺るがない平安として与えられたのではないでしょうか。その家族の働きが神様の栄光を現す、多くの傷を負ったカンボジアの人を救う愛の働きとなることを祈ります。