先週の説教要約 「幸せに生きる処世術」

◎先週の説教要約
「幸せに生きる処世術」                      中道善次牧師

コヘレトの言葉と呼ばれる書物が、旧約聖書にあります。この書物は、神や宗教と離れて読んでも、それなりに意味ある教訓が見られます。
コヘ 7:14 順境には楽しめ、逆境にはこう考えよ。
コヘ 7:16 善人過ぎるな、賢すぎるな。
コヘ 7:21 人の言うことをいちいち気にするな。
これらは、神という言葉が出てきませんが、十分私たちの心に響くものではないでしょうか。
コヘレトって何でしょう?これはヘブル語をそのままカタカナにした言葉です。
「集まる」がコヘレトの元の言葉です。
そこから、語りかけるために会衆を集める人、をコヘレトと呼びます。
そこから、説教者、集会の指導者、伝道者などと訳されましたが、どれもピンとこない。それでそのままコヘレトと呼んでいます。
内容は、人生の処世術のようなことが書かれています。
今日は、この書物の中で繰り返されている大切な処世術、幸せに生きる秘訣を共に学びます。
① 全てのことに時がある
コヘレトの言葉3章には、全てのことに時があるといわれています。
コヘ 3:1 何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある。
コヘ 3:11 神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。
神の時を感じた個人の体験をお話しします。
アメリカでの勉強を終え、1988年に帰国しました。最初の年、ひどい逆カルチャーショックを受けました。そして、自分は日本にうまく適応できないのではないだろうかと悩みました。
また宣教学を学んだことも影響して、海外に宣教に行きたいと願いました。半分逃避の気持ちがありました。
そして海外宣教の可能性を探るために、ある宣教団体を訪れました。英語を使って東南アジアの神学校で教えたいのだけど、どうでしょうか。フィリピンにないでしょうか。残念ながら、何も回答を何もいただけませんでした。
それから22年後の2010年、フィリピンを訪れました。私が訪れた団体の神学校は、1989年からスタートしたので、1988年はまだなかったのです。時でなかったことを深く認識しました。
しかし私の長年の夢が叶ったのは2007年でした。東南アジアのミヤンマーの神学校で教え始めました。その神学校が、ちょうどスタートした年に、私もミヤンマーの宣教を始めたのです。
私たちが祈っていると、やがて神の時が来て、長年の祈りが答えられるのです。

② 家族と楽しく食事をする
コヘレトの言葉の中には、五個所似た教えがあります。
コヘ 2:24 人間にとって最も良いのは、食い飲みし、自分の労苦によって魂を満足させること。
コヘ 3:12 わたしは知った。人間にとって最も幸福なのは、喜び楽しんで一生を送ることだ。
コヘ 3:13 人だれもが食い飲みし、その労苦によって満足すのは神の賜物だ、と。
伝 5:17 見よ、わたしの見たことはこうだ。神に与えられた短い人生の日々に、飲み食いし、太陽の下で労苦した結果の全ての満足することこそ、幸福で良いことだ。それが人の受けるべき分だ。
伝 5:18 神から富や財宝をいただいた人は皆、それを享受し、自らの分をわきまえ、その労苦の結果を楽しむように定められている。これは神の賜物なのだ。
伝 5:19 彼はその人生の日々をあまり思い返すこともない。神がその心に喜びを与えられるのだから。
コヘ 8:15 それゆえ、わたしは快楽をたたえる。太陽の下、人間にとって、飲み食いし、楽しむ以上の幸福はない。それは、太陽の下、神が彼に与える人生の日々の労苦に添えられたものだ。
コヘ 9:9 太陽の下、与えられた空しい人生の日々、愛する妻と共に楽しく生きるがよい。それが、太陽の下で労苦するあなたへの人生と労苦の報いなのだ。
コヘレトは実に単純に、幸せに生きる人生の秘訣は、家族と一緒に食事をして、人生を楽しみなさいというのです。
これは誰でも手にすることの出来る幸せであります。
それは、一人で飲んで食べてというグルメのことではなく、毎日の生活の中で、味わうことの小さな幸せを見出すことです。
しかし家族と一緒に食事を楽しめない人、肉体的な理由で食事が出来なくなることがあります。
その人にとって、愛する人と食事をするのと同じような幸福感が、神であるイエスを信じることです。
その幸せを、コヘレトは最後の結論として述べます。
コヘレトは、人生の処世術を述べ、最後に、やはり神を信じることが一番幸せだというのです。
コヘ 12:1 青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。
コヘ 12:13 すべてに耳を傾けて得た結論。「神を畏れ、その戒めを守れ。」これこそ、人間の全て。

③ 精一杯伝道する
コヘレトの言葉11:4と6は、伝道の勧めと受けとめることが出来る言葉です。
コヘ 11:4 風向きを気にすれば種は蒔けない。雲行きを気にすれば刈り入れはできない。
コヘ 11:6 朝、種を蒔け、夜にも手を休めるな。実を結ぶのはあれかこれか、それとも両方なのか、分からないのだから。
風が強いから止めておこう、雨が降るかもしれないから止めておこうなどと思わないで、勤勉に種まきを行いなさいという勧めです。そして次のように励ますのです。あなたは何時、どこで撒いた種が実を結ぶか、わからないのだから。もしかしたら、あれもこれもうまくゆくかもしれないのだから。そう楽観的に励ますのです。
エスの「種まきの譬え」も同じように必ず実を結ぶから、種を蒔きなさいと楽観的に勧めるのです。
この楽観主義のゆえに、イエスは相手が耳を傾けようが傾けまいが、御言葉の種をまいた、撒き続けたのです。そこには伝道という働きに伴う「無駄」でさえ許容されているといえるのです。
もし私達が、「効率のよい伝道」や「計画通りの伝道」など考えていたら、御言葉の種をまく働きは出来ないのです。
私たちの教会ではかつて、開拓伝道と学生伝道を同時に行いました。
その時を振り返ると、最初のシナリオが崩れ、両方とも駄目になるかもしれないという危機がありました。
しかし結果として、聖書の言葉のように、あれもこれも、実を結んだのです。
開拓教会は、2009年2月に献堂式を行い、今は独立しています。
学生伝道は、カフェを開業し、無事10周年を祝いました。
忍耐と勤勉に裏付けられた楽観主義が、聖書に描かれていることを覚えたいと思います。