先週の説教要約 「心の貧しい人の幸い」

○先週の説教要約
『心の貧しい人の幸い』               中道由子牧師
《心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである。》
(マタイによる福音書5章3節)

マタイによる福音書5〜7章は、「山上の説教」と呼ばれます。なぜ主は山で語られたのでしょうか。旧約聖書で山で与えられた教えとは、モーセの律法です。主は、モーセに与えられた古い律法に代わる新しい律法を宣言されたのです。イエス様が口を開いて語った教えが、「ああ、幸いなことよ!」と歓喜の言葉で始まっています。心の貧しい人がやがて幸いを得るのではなく、今、その状態が幸せなんだ、と言っておられるのです。
1、 八つの幸いの特徴
① 同時に持つべき姿
 バラバラで持つものではなく、聖霊の9つの実のように、神様から与えられた八つの祝福です、あるものが他のものよりも重要だったり、劣っていたりという優劣はありません。持つべきと持たなくてもいいという区別もありません。これらは、同時に持つもので、見る角度によって違う姿を現しています。
② 生まれ変わった姿
これらは先天的、生まれながらの姿、特質ではありません。道徳的な教訓でもありません。聖霊を通して生まれ変わった人々に特別に着せてくださる衣です。
③ 世の中の人々とは違う姿
クリスチャンは外面よりも内面的に基本的な考え方、価値観、物を見る視点が世の人と違っています。仕える対象が違うからです(お金、物、名誉、成功に対して)。私たちは天の御国と義を求めています。私たちの望みは別の世界にあります。
行いにおいても、世の中は自分の能力や権力を誇ります。貧しさではなく豊かさを、柔和ではなく、自己主張をします。山上の説教が示しているクリスチャンの姿は、どこまでも自分の弱さ、限界、無力さを通して神様に頼る人です。
2,教会で与えられる幸せ
ルカは、弱い者、女性や子供に目を留め、貧しい者への特別な憐れみを表現しています。ルカによる福音書16章19節からのたとえ話として出てくる、ラザロは貧しさの典型です。しかし、ラザロが、金持ちに憐みを乞い、拒否されたとは書かれていません。ラザロがその貧しさにもかかわらず、信仰深く、愛に富んでいた、とも書かれていません。神様は金持ちに対して、「あなたは生前良い物を受け、ラザロの方は悪いものを受けた。しかし、今ここでは、彼は慰められ、あなたは苦しみもだえている。」(ルカ16;25)と言っておられます。
ラザロはただ悪いものを受けた、欠乏に生きた、ただそれだけです。
金持ちには名前はついていませんが、イエス様はこの譬の中で、ラザロに名前を付けておられます。「神は救いである」という意味です。ラザロは、決して功徳を積んだわけではなく、ただ貧しかっただけです。その貧しさの中で、ただ神の救いに預かった、欠けていたから慰めていただいた、それだけなのです。神様を求めないと生きていけない状態、そこに主は降りてきてくださるのです。
人は生来、豊かで謙遜な人にであうことは難しいと思いませんか。
3、 心の貧しい者は幸い
神様は謙遜の反対、高ぶりをお嫌いになられます。自分が霊的に優れていると自慢し、人に圧力を与える人を神様はお嫌いになられます。
二心なく、神様の栄光と聖さの前に、自分は何者なのか、自分の罪と弱さ、無力さを悟っている人、その人の魂は余分なものを払い落として、純真です。心貧しい生き方とは、不幸で恵まれない暮らしを意味するのではなく、簡素で真実に満ちた、聖い生き方です。
 カトリックのシスター渡辺和子先生がカルカッタを訪問されたとき、マザー・テレサは、お亡くなりになる前に、”Pray for me”、「私のために祈ってほしい」とおっしゃったそうです。聖人のような方ですから、「あなたのために祈ってあげます」とおっしゃってもいいはずの方です。しかし、「私のために祈ってほしい」とは、世間が自分をどのように高く評価しようとも、自分は非常に弱い人間で、神様に召される前に、穏やかに受け入れることが出来るように祈ってほしいということでした。自分がこれだけ神様のために働いたのだから、聖人のようにきれいな死を遂げるはずだとはおもっておられなかった、自分は神のはしためであるという謙虚さを最後までお持ちでした。
最後に、主イエス様の完全な貧しさで閉じたいと思います。
「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順でした。」
(フィリピ人の信徒への手紙2;5〜8)