先週の説教要約 [悲しむ者の幸い」

○先週の説教要約
『悲しむ者の幸い』                  中道由子牧師
《 悲しむ人々は、幸いである。その人たちは慰められる。》(マタイ5:4)
八福の教えと言われている、山上の説教の教会は八角形になっています。
この8つの品性は、すべてのクリスチャンに与えられるものですが、ひとつが他よりも優れているということもなく、生まれながらに持てる性質でもありません。

1、 世の悲しみとは異なる
最初の「心の貧しい者」とは、神様の御前に何も主張することができない、御前に捧げるべき物を何も持たず、神様以外に何も自慢することもない人のことです。その貧しい人が持つ別の姿が、悲しむ人です。

クリスチャンの悲しみとは、何か?
この悲しみは、霊的な罪に関わる悲しみです。
イスラエルの初代の王であったサウル王とダビデ王の罪の悔い改め
① サウル王の悔い改め
アマレク人との戦いで主によって聖絶しなさい、との命令に従わず、良いと思える者を残しておきました。そのことをサムエルに責められると、主の供え物にするために取っておいたのだと言い訳をしました。
サウルの悔い改め
「わたしは罪を犯しました。しかし、民の長老の手前、どうかわたしを立てて、わたしと一緒に帰ってください。そうすれば、あなたの神、主を礼拝します。」(サムエル上15:30) 
新改訳「しかし、どうか今は、私の民の長老とイスラエルとの前で私の面目を立ててください。」
ダビデ王の悔い改め
ダビデの罪はサウルに比べると道徳的にはもっと悪質なものです。
家来ウリヤの妻と姦淫の罪を犯し、彼女が妊娠するとウリヤを戦いの最前線に送り殺して、その妻バテシェバを自分の妻にしました。
預言者ナタンがこの罪を指摘した時のダビデの告白
「わたしは主に罪を犯しました。」(サムエル記下15;30)
王の権威によってナタンを殺すこともできたダビデですが、自分の罪を神の前にも人の前にも公にして隠しませんでした。

ダビデの罪の悔い改めと罪の嘆き、罪の赦し
「神よ、わたしの内に清い心を創造し、新しく確かな霊を授けてください。」
詩編51:12)
ダビデのように、罪を心から嘆き告白する者に、主は真の自由をくださいます。

2、悲しむ者は慰められる
ラザロの死の前に「イエスは涙を流された」(ヨハネ11:35)
私たちは皆、慰めを必要としています。
人の慰めももちろん必要ですが、神の慰め以上の慰めはありません。
詳訳聖書「うらやましい程の祝福」と書かれています
「わたし、わたしこそ神、あなたを慰めるもの」(イザヤ書51:12)
父なる神の懐の中で真の慰めを受けるのです。
「涙と共に種を蒔く人は 喜びの歌と共に刈り入れる。」(詩編126:5)
悲しむ者には天からの慰めだけでなく、報いがあります。
玉座の中央におられる小羊が彼らの牧者となり、命の水の泉へと導き、神が彼らの目から涙をことごとくぬぐわれるからである。」(ヨハネ黙7;17)
涙が次々と流れるとき、誰かが温かい手を差し伸べて、涙をぬぐってくれたらどんなに慰められるか、私たちの主はそのようなお方です。
「神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。」(コリント信徒への手紙二1:4)
神からの慰めを受けた者だけが、真に人を慰めることができます。
神の慰めは、私たちの内で、力となり、勇気となり、知恵となって、困難を克服し、立ち上がらせてくださいます。

3、主イエスの悲しみ
「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、ご自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ」(ヘブライ人への手紙5:7)
主は私たちのために涙を流して祈って下さるだけでなく、私たちの罪のために自ら十字架の上で命をささげてくださいました。
私たちを生かし、私たちに救いの喜びを下さるために。