先週の説教要約 [あなたは素晴らしい」

先週の説教要約    「あなたは素晴らしい」  中道善次牧師

創世記1章26〜31節


聖地と呼ばれるイスラエルでは、英語も通用しますが、公用語はヘブル語です。
イスラエルに行きましてよく耳にする言葉の一つは、トーブです。
旅行者用に簡単に覚えられるヘブル語の一つが、ボーケル・トーブです。これはおはようございます。英語で言うとグットモーニング、そのグッドに当たる言葉が、トーブであります。
また現地の人が、会話の中でトーブと言っているのを耳にしました。英語で言えば、グッド、うん、それでいいよ。よかった。そのような言葉遣いであります。
今朝のお話は、トーブという言葉を鍵にしながら、私たちは「とても素晴らしい」者であることを、確認してまいりたいのです。
① とてもよく造られた
天地創造の記事で、神様が人間を造られた箇所創世記1:26〜31を見て下さい。
神は天地を作られ、人間を作られ、そしてその度におっしゃった言葉がある。それはヘブル語で言うトーブ、英語ではgoodだ。神は「よし」とされた。そして6日目に人間を作られた。そして天地創造が完成した。そして神はおっしゃったのです。トーブ、トーブ、very goodと。そのように言っている聖書の箇所は31節であります。
ここに人間の祝福の原点があるのです。
この最後のところに、「極めてよかった」とあります。これは英語で言うとベリーグッドです。人間だけでなく、全てのものを含めてベリーグッドだったのです。
ここに人間の祝福の原点があるのです。それは神様から褒められて、祝福を受けて造られたのです。そしてその姿は、ベリーグッドなのです。
人間が自分のことを肯定できなくなる。very good と思えなくなってしまう。ここに神が造られた本来の人間の姿から離れてしまう人の姿があるのです。それを聖書は「罪」と呼ぶのです。
本来の私たちの姿、それは神様から very goodと言って「ほめて」いただける存在なのです。
もう一度、私たちの原点を確認いたいと思います。

② あなたは祝福となる
  祝福の第二の原点を見てまいりたいと思います。
それはアブラハムという人物です。
  神様は、アブラハムに現れておっしゃったのです。
  私はあなたを祝福する。新共同訳聖書では創世記12:2を「あなたは祝福の源となるように」とありますが、口語訳は「祝福の基」、新改訳聖書では、あなたの名は祝福となるで、よりヘブル原文に近いのです。名は存在そのものです。ですから、あなたの存在は祝福になりますという意味を表わしています。
  英語を見ますと、you will be a blessing。あなたは祝福になります。祝福となれという命令形にも訳すことが可能です。
  聖書は、アブラハムの祝福の姿を、繁栄、成功だけでなく、「肯定」に見るのです。それが創世記12:1〜7に見られます。
  アブラハムの肯定は、神の命令に対して、何も言わずに従ったということです。
アブラハムの肯定は、7節によりよく表現されています。思い切った決断をして、長い旅をして目的地に着いたのですが、そこには先住民がいました。シケムは当時の先端を行く都市国家でした。城壁に囲まれた町がそびえています。それだけでない。信仰の自由を求めてきたアブラハムにとってショックだったのは、モレのテレビンの木、すなわち、大きなご神木が立っていたのです。
そのような時に、神はもう一度アブラハムに現れて言われたのです。あなたの子孫のこの土地を与えると。アブラハムはその言葉を肯定したのです。そこに祝福そのものとなったアブラハムの姿があるのです。
聖書を信じる人々は、アブラハムの祝福を、受け継いでいることにこだわりました。
ユダヤ人は、「アブラハムさんのように祝福されますように」と挨拶のときに交わすそうです。
パウロと言う人は、ユダヤ人がこだわってきた「アブラハムにあやかる祝福」は、ユダヤ人だけでなく、全ての人に及ぶのだと、とても思い切ったことを言うのです。それがガラテヤ3:8〜9です。
ガラ 3:8 聖書は、神が異邦人を信仰によって義となさることを見越して、「あなたのゆえに異邦人は皆祝福される」という福音をアブラハムに予告しました。
ガラ 3:9 それで、信仰によって生きる人々は、信仰の人アブラハムと共に祝福されています。
あなたがイエス・キリストを信じるなら、聖書がアブラハムに約束した祝福に預かる者、あやかる者となるのです。

③ 神は失敗しない
三番目の祝福は、あなたやあなたの周りに起こってくる出来事に対しても、肯定的に受け止めることができるようになることです。
生まれつきの盲人がいやされた聖書の箇所をごらんください。
ヨハ 9:2 弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか」。
ヨハ 9:3 イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。
うまれつきの盲人に対して、弟子達がイエス様に質問しました。いわゆる因果応報の考え方です。この人が不幸な生い立ちなのは、本人の責任ですか。それとも両親ですか。誰の責任ですか。先祖のたたりですか?そのような考え方は、国を問わず、昔も今もあったのです。
しかしその質問に対してイエス様は画期的な答えをなさったのです。これは誰のミスでも、失敗でも、責任でもありません。神は、この人を通して、ご自分の御業を現す目的を持っておられるのです。神様がすばらしいことをなさる為に、この人は盲目であるのです。そのようにおっしゃったのです。
そしてその言葉のとおり、盲人はイエスの御業によって、目が見えるようになり、イエスの弟子としてしたがって行ったのです。
現代でも、これと類似したようなお話があります。
ファニー・クロスビーという讃美歌作者がいます。クロスビーは、盲目の賛美歌作者でした。
クロスビーが、讃美歌作者として有名になったあとで、一人の方が、彼女に謝罪しました。
クロスビーさん、あなたが失明したのは、赤ちゃんのあなたを見ていた私のミスでした。
その謝罪に対して、クロスビーは、優しく微笑んで、次のような言葉をかけました。
もう過去の事を気にしないで下さい。人間には失敗はあります。しかし神には失敗はありません。クロスビーは、神を信じ、そして盲人として、讃美歌作者として生きてきた自分の人生を振り返って、神様はすばらしいことをなさった。そのような自覚と感謝があったので、神様には失敗はありません。私の人生はこれでよかったのです。私は素晴らしい人生を送ってきたのですと謝罪に来た人に告げたのです。
人間は失敗することがあります。しかし私たちの人生の失敗でさえ、神は美しく変えられる。クロスビーは、その神の恵みを知っていたのです。そして彼女の作った賛美歌の中にも、♪救い主イエスと共に行く身は♪の中で、♪ものごとすべてをよきになしたもう♪〈新聖歌340番〉と歌っているのです。
私たちも、人生で失敗をすることがあります。しかし神様には、失敗がない。私たちの失敗さえ、美しい絵に描きかえて下さるお方です。