先週の説教要約 [柔和な人は幸い」

○先週の説教要約
『柔和な人は幸い』                    中道由子牧師
<柔和な人々は、幸いである。その人たちは地を受け継ぐ。>(マタイによる福音書5:5)

1,聖書の言う柔和
 柔和な者は幸いである、とイエス様が語られた時、ユダヤの人々はショックを受けました。当時のユダヤ人たちは、武力侵略や政治的圧力、貧困や社会の混乱から解放してくれる救い主を待ち望んでいたからです。ユダヤの人々は、戦いによって勝利と解放を手に入れるものと考えていました。
 「柔和」は、ギリシャ語で「プラウス」、「家畜を手なずけて、言うことを聞くようにする」と言う意味があり、文字通りおとなしい従順の意味です。聖書の言う柔和は、それだけではありません。
柔和は第一の品性として語られた貧しい心に由来しています。心の貧しい人は、神様の前に自分がいかに無力な者であるか知っています。それで、神様の基準で見るなら、自分の行いや正しさはぼろ布のようであることを悲しみます。悲しむ者は自分の不義や過ちを素直に認め、他の人の罪をも自分の罪として悲しみます。このような人はおごり高ぶったり、人を攻撃したりせず、心から謙虚に神様だけを仰ぎ見るようになります。これが柔和な人です。
柔和は、神様の聖さに目を向ける時に現れるもので、実は力強い神様の力が潜んでいます。真に柔和な人は、自分の性格や思い、行動、能力などを制御出来る人です。御霊の9つの実でいうなら「自制」です。そのため、柔和な人は損をすることになります。 
「聖なる損」
言い争いや葛藤が起こるとき、損をしようと決めるなら神様の驚くべき祝福を経験します。力があっても力を自分のために使わず、他の人のために役立てるのです。柔和な人々は自分の思いをあきらめて、神の御心に従順な人です。
 福音を伝えるとき、柔和と謙遜は、伝道の武器となります。議論に負けて魂を勝ち取りましょう。

 2、聖書に見る柔和な人たち
アブラハム
神がアブラハムにカルデヤのウルに生きなさい、と命じられた時、彼はそこがどんな所かも知らないまま従いました。この従順は柔和から生まれます。
イサクをささげるように神に命じられた時も、到底納得のいく命令ではありませんでしたが、朝早くイサクを連れてモリヤの山へと向かいました。アブラハムの従順と柔和の最高潮です。
②ヨセフ
ヨセフは兄弟たちの嫉妬によって、エジプトに売られました。そして、大変な苦労をした後、罠にはまって牢獄にも入れられたのです。しかし神はヨセフをエジプトの大臣として立てられます。
ヨセフが兄弟たちと再会する場面でヨセフの柔和を見ることが出来ます。
「しかし、今は、わたしをここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです。」(創世記45:5)
「わたしをここへ遣わしたのは神です。」(創世記45:8)
赦すときは条件なしに赦し、条件なしに忍耐するのです。
モーセ
 40年間の荒野での生活を通して、モーセが得たのは柔和でした。
民数記12章で、ミリアムとアロンがモーセを非難しました、「主はモーセを通してのみ語られるのか、我々を通しても語られるのではないか」。モーセは自己弁護しませんでした。
モーセという人はこの地上のだれにもまさって謙遜であった。」(民12:3)
ダビデ
 ダビデはサウルに苦しめられたが、一生のうちでサウルのことを悪く言いませんでした。

3、地を受け継ぐ約束
 地を受け継ぐ、相続の約束です。別の聖書の訳では、「創造主が、その人たちを世界の王者とさせてくださいます」となっています。
多くの人が、柔和な人は出世したり、成功を治めたり出来ないとおもっています。生存競争に負けて、他の人々に利用されてしまうと考えています。
過去に世界を支配した英雄や征服者たちはどうなったでしょうか。一時期勝利を手にした人たちが、最後には敗北しています。ただひとり、何の抵抗もせず、十字架上で死を遂げられたイエス・キリストは今も人々の心をつかんでおられます。
柔和な人は地を受け継ぐのです。地を自分の財産とさせていただく果報者、ということです。
「地を身代する」とは、この地上における豊かさを獲得することを意味しています。八福の教えの中で「天国」ではなく、「地」について語られているのはここだけです。学校や職場でつらいことがある、しかし、そこから切り離されて信仰するのとは違います。「地」とは、そのような俗なる世間、神なき世界まで含むのです。悪が勝利しているように見えても、倒れそうな絶対絶命の時と思えても、神の支配の及ばないところはないのです。