先週の説教要約 「天のふるさと」

○先週の説教要約
『天のふるさと』                    中道由子牧師
<彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。>
ヘブライ人への手紙11:13〜16)

1、私たちは旅人  2、天のふるさと

1、私たちは旅人
 ヘブライ人への手紙は、著者が不明です。ある神学者は、天国へ行ったらこの著者を見つけたい、と言ったそうです。この手紙が書かれたのは、信仰の最初の情熱が、薄れてきて、再臨を待っているのに再臨はあるのか、しかもローマ帝国の迫害が始まったばかりの時で、この迫害は300年も続いたのです。その迫害のまだ初期です。忍耐をして苦難と艱難の中信じ抜いていく、という励ましが必要でありました。

 新共同訳で13節に「よそ者」と言う言葉が出てきますが、ヘブライ人のことを原語では、「よそ者」という意味があるそうです。25年くらい前に鵠沼教会で英会話を教えてくれていた宣教師が、当時こんな話をしていました。市役所に行くと「エイリアント」と書かれている所で外国人は登録しなければならなかった。「エイリアントだよ!」と笑いをとるように話していました。エイリアントを直訳すると「宇宙からの侵略者」という意味です。これは外国の方に対して失礼です。しかし、わたしたち、クリスチャンもこの国に住んでいながら、実はこの国のものではない、エイリアントよそ者であると、言うことができます。

「しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。」(フィリピ人への手紙3:21)

口語訳では「わたしたちの国籍は天にあります。」となっています。
わたしたちは日本と言う国籍を持っていますが、クリスチャンはみな天国に国籍がある。ですから、ある宣教師は「私たちは皆、天国人です」と言いました。霊的にこの地上を永遠の国としないからです。
 さて口語訳では、この箇所は「旅人」と書かれています。皆さん、旅は好きですか?
でも旅は、帰る家があるから楽しむことが出来るのではないでしょうか。フー天の寅さんではありませんが、帰る家があるから、「また行ってくらー」と言って旅に出られる。
ここで言う「旅人」というのは、あちこち回って見物する巡礼者ではなく、世の中の人の輪に加わって住んでいるのですが、臨時に暮らしている者たちのことです。

 ここに出てくるアブラハムもサラも約束の地を与えると神様からお声がかかり、住んでいたウルからハランに向かって旅をしました。11章8節には「行先を知らず出て行った」とあります。大家族を連れて民族大移動のような旅であったと思います。神様だけを頼りにして、お言葉に従いました。彼は、神の言葉に人生をかけて旅をして行ったのです。カナンを目指して旅をしていく彼の人生には、いろんなことが待ち受けています。約束の子イサクを待てなくて、失敗したり、痛い経験があります。そして、そのイサクを捧げよという神様のお声にアブラハムは従います。
物語は、イサクとヤコブ、ヨセフと続いていきます。アブラハムだけでなく、イサクやヤコブも、故郷にあこがれて生きていた人でした。ヤコブは双子の兄との関係がうまくいかなくて故郷を後にして、叔父さんの所に世話になり、働きます。そこで結婚して家庭を築きますが、いつも叔父さんに利用される人生でした。そのヤコブが叔父さんの家を脱出して家族を連れて故郷に帰ります。自分が一生生きていくのはここではない!これ以上利用される人生ではなく、故郷に帰って自分の家族を養っていく。」と決意新たにしてふるさとに帰る旅に出ます。ヤコブは故郷に戻って子どもたちに恵まれます。
しかし、その末っ子ヨセフは、兄弟のやっかみからエジプトに売られ本当に苦労をします。ついにヨセフはエジプトの総理大臣まで上り詰めて行きます。そのヨセフは寄留の地、エジプトで最後を迎えますが、エジプトを出る際には、自分の骨を持って出るように遺言を残しました。神がアブラハムに約束されたカナンへの望みを最後まで握りしめていたのです。
一人一人は皆この地上で自分の使命を果たして天のふるさとに帰って行ったのです。

2、天のふるさと
先ほど新聖歌233番「驚くばかりの」を賛美しました。4番の歌詞は、天国の内容になっていますが、3番の歌詞が興味深いと思います。

Through many dangers, toils and snares たくさんの危険や誘惑があったが、
I have already come.
'Tis grace has brought me safe thus far, この神の恵みが私を守ってくれた
And grace will lead me home. そしてこの神の恵みが私をホームに導いてくれる。

この我が家は、今ある家かもしれません。ふるさとの我が家だとしたらどうでしょう。
私にとってもふるさとの育った家は私の心にあります。目をつぶれば全部今でも歩けるような気がします。イエス様は、天に私たちのふるさとの家を用意して待ってくださいます。
聖書の黙示録には天国の様子を「 聖なる都エルサレム」と書かれています。そこは、神の栄光のうちに、その都の輝きは、高価な宝石のようであり、透明な碧玉のようだ、と書かれています。
神様の栄光が輝いている所ではありますが、あまりキラキラしていると私などは落ち着かない、と愚かなことを考えてしまいます。ですから、天国は「天のふるさと」だと言われるとほっとします。
私たちの人生の一番ほっとする所に似ていて、永遠に休める、憩える所、私たちの
「ホーム」に神様は導いてくださいます。この地上の生活は神様の永遠からすると、旅のように短く、この肉体の命が終わってからの方がずっと長いのです。神様にとっては1日は千年のようだとあります。やがてイエス様が来られ、復活の体が与えられるとき、まず先に召された愛する人々が目を覚まして、昨晩寝て、今朝起きたように「おはよう!」と挨拶してくれるでしょう。