先週の説教要約 「聖書の格言に学ぶ」

先週の説教要約  「聖書の格言に学ぶ」   箴言27章17〜21節   中道善次牧師

箴言にはストーリーがあります。
箴言は、都市に住む家族の物語です。神を畏れて生きてきた両親が、息子に、誘惑から身を守りなさい。そして賢い女性を妻としなさい。そのためには、10章から語られるソロモンの箴言を聞きなさい。
そしてもう一度、大切な教訓として、賢い妻を選びなさい。それを箴言の最後31章で語るのです。
箴言を語る両親からすると、31章で描かれている女性こそが息子に相応しいのだと語り、締めくくるのです。
簡単に箴言のアウトラインを示すと以下のようになります。
1章〜9章:父、あるいは母から、息子(娘にも適用可能)へのメッセージ「知恵の言葉に耳を傾けよ」
10章〜31章9節:ソロモンの箴言をはじめとする格言集「知恵の言葉の数々」
31章10節〜31節:賢い妻への賛歌「知恵ある生き方は、賢い妻を得ること」
二つのポイントで学びます。① 箴言31章が示す女性 ② 箴言の御言葉に生きた人々

箴言31章の示す女性

箴言を語る両親から息子への最後のメッセージが31:10です。
箴 31:10 有能な妻を見いだすのは誰か。
新改訳聖書では「しっかりとした妻」であります。
それは控えめでおとなしい女性でも、きれいで知恵のある女性でもありません。
リュ・モーセ著「聖書の世界が見える」(植物篇)には、箴言31章に出てくる女性は、腕の太い、たくましい女性なのだと述べています。
その裏付けとして、次のような当時の人々の生活がありました。
イスラエルで、いわゆる主食といえる食べ物が大麦と小麦です。精麦所のなかった聖書の時代に、小麦粉を手にすることのできる唯一の方法は家ごとにある挽き臼を利用することでした。
ロバが回す挽き臼では、1時間に8kgの大麦をひけたようです。
それに対して、家ごとにある手で回す挽き臼だと、1時間に800gの小麦しかひけません。
当時一人が一日に食べる小麦の量が500gでした。ですから6人以上の家族を食べさせるために、女性は4時間以上挽き臼を回さなければなりませんでした。
その簡単な計算は、500×6=3000。6人家族だと、一日3000gの小麦が必要です。
4時間小麦を挽くと、3200gの小麦粉を手にすることが出来ます。
ここに出てくる、しっかりとした妻は家族がまだ寝ている時間に起きなければなりません。そして食事の用意をするのです。4時間挽き臼で小麦を挽くのです。毎日それをするのです。当然、腕が太くなるのです。

同時に、この女性はやり手のビジネスウーマンです。それを示唆する御言葉があります。
箴 31:24 彼女は亜麻布を織って売り、帯を商人に渡す。
加えて、夫を高いポジションに押し上げてくれる女性です。
箴 31:23 夫は名を知られた人で、その地の長老らと城門で座に着いている。
そして子どもたちと夫は彼女に感謝するのです。
箴 31:28 息子らは立って彼女を幸いな人と呼び、夫は彼女をたたえて言う。29節に続く
自分の美しさ、身を飾ることだけを考える女性ではなく、家族を養う女性なのです。
箴 31:30 あでやかさは欺き、美しさは空しい。主を畏れる女こそ、たたえられる。
箴言31章は女性を見る目を持てという親から子へのメッセージなのです。


箴言の御言葉に生きた人々
日本語で「生き字引」という言葉があります。これを英語では、ウオーキング・ディクショナリーと言います。直訳すると「歩く辞書」となります。
そこからの連想として、ウオーキング・バイブルと言う言葉があっていいと思います。しかしそれは、聖書のことを何でも知っている知識豊富な「歩く辞書」と言う理解ではないのです。
あの人を見ていると、あの聖書の個所を思い出す。その御言葉のまま、生きておられる。
箴言のいくつかの御言葉は、ある敬虔なクリスチャンの生き方そのものを思い起こさせるのです。

私が出会った4人の人物を紹介します。
その一人が、OMSのK宣教師です。K宣教師は、箴言27:17の御言葉が題になった本に刺激を受けて宣教師として日本に来ました。
箴 27:17 鉄は鉄をもって研磨する。人はその友によって研磨する。
2013年の夏、K宣教師は黙々と茅ヶ崎教会の改築のために働かれたのです。午前8時から午後5時まで。休むのは日曜日だけ。今日は暑いから、今日は疲れたから、全くそのようなことがありませんでした。K宣教師の無言のメッセージが、私を研いだのです。また一緒にボランティアで働いていた献身者の心を研いだのです。

Mさんという福音歌手がおられます。私たちの兼牧教会のコンサートでお招きしました。個人的な会話で語られた印象深い言葉がありました。それが、箴言の言葉でした。
箴 27:21 銀にはるつぼ、金には炉。人は称賛によって試される。
Mさんは、人から賞賛される時、どう反応するかがいつも問われるとおっしゃいました。歌手ですから、歌を歌うと拍手を受けます。賞賛を受けるのです。そのとき、私は主から試されているのだ。そうおっしゃいました。そこで天に向かって指を上げて、全ての栄光は神様にあります。賞賛を受けるのは、私ではありません、神様です。その謙虚なお姿に深く教えられました。

次に、紹介したい言葉は、箴言4:20〜22です。
箴 4:20 わが子よ、わたしの言葉に耳を傾けよ。わたしの言うことに耳を傾けよ。
箴 4:21 見失うことなく、心に納めて守れ。
箴 4:22 それらに到達する者にとって、それは命となり、全身を健康にする。
かつて一緒に働いたOMSのS宣教師が、聖書を読みなさい。くどいように言いました。それはあなたを健康にします。そう言っていたのです。それは心の健康ではないのです。霊的な健康ではないのです。肉体の健康を聖書の言葉が与えると言うのです。
癒しを強調する人だから、そう言っているのだろうと思っていました。しかしその言葉が聖書にあったのです。私の信仰理解を広げてくれた御言葉です。健康のためにも聖書を読みたいと思います。

最後に紹介したいみ言葉は、箴言8:17です。
箴 8:17 わたしを愛する人をわたしも愛し、わたしを探し求める人はわたしを見いだす。
茅ヶ崎教会が創立直後から、ずっと教会を支えてきて下さったO兄がおられます。
死を宣告される病気から癒やされた方です。彼は自分の癒しの証しと共に、鍵が見つかったという証しを何度もされました。それは単純な証しでした。鍵がなくなった。あちらこちら全て捜した。にもかかわらず,見つからなかった。そしてもう一度祈られた。そうしたら、洋服ダンスの中にある服のポケットを捜しなさい。そのような細い声が響いてきたのです。既にその個所も調べたはずだが、そう思いながら、もう一度洋服ダンスの中の服のポケットを調べたところ鍵があったのです。
O兄は、ただ鍵が見つかってよかった。そのようなことではなく、これは、鍵を探すという行為から、神様を求めたのだ。そして、神様と出会ったことなのだ。そう言って箴言8:17をよく語られました。
聖書の言葉、とくに箴言の言葉には、その人を象徴する、その人の生き方そのものを現すことがあるのです。