2018年3月18日の説教要約 「彼は何を恐れたのか」

2018年3月18日の説教要約  「彼は何を恐れたのか」  中道善次牧師
(マルコ 14章66〜72節)

ある宣教師は、聖書は失敗学の書物だと言いました。失敗学のお手本のような人物がペトロであります。今日は、イエスを裏切ったペトロの失敗から学びたいと思います。

① 彼は何を恐れたのか
ペトロは、3回もイエスの弟子であったことを否定しています(マルコ14:68、70、71)。
68節の言葉、「あなたが何のことを言っているのか、わたしには、分からないし、見当もつかない」。
このペトロの言葉は、「しどろもどろ」の言い方になっております。
しかしペトロの恐れに関して、ある説教者は次のように語られる。
ペトロは何を恐れたのか?
ペトロは捕まるはずがない。何故なら、イエスが逮捕された時、ペトロはそこにいながら捕まらなかったからです。当時の権力者にとって、ペトロを捕らえることぐらい何でもなかった。彼らは、イエスさえ捕らえれば、弟子なんか、放っておいても消えてゆく。そう思っていたのです。
恐れに勝利するために、私がある時期、実践したことは、心の中にある自分の恐れを追い出すことでした。
その根拠となる御言葉があります。ヨハネの手紙一 4:18「完全な愛は恐れを締め出します」。
これは、建物の前に立ち入り禁止の札が掲げてあることと同じだ。神の愛に支配された信仰者の心の家の前に札が掲げてある。「恐れは立ち入り禁止」と。
私たちの心の中から不必要な恐れが取り除かれる事を祈ります。

② 彼は誰を呪ったのか
  次に学びたいことは、ペトロの三度目の否定の言葉です。
すると、ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、「あなた方の言っているそんな人は知らない」と誓い始めた(マルコ14:71)。
ペトロは呪いを込めて誓った。誓いは、聖書では大切です。署名捺印と同じで、決して取り消す事のできないものです。
では、ペテロが誰を呪ったのか。
第一は、ペトロが自分自身を呪ったという考えです。
呪いは、祝福の反対言葉です。
自分を呪うとは、自分は神の祝福の中になんかいない、と言うことです。
ペトロにとって、神の祝福を信じて、イエスについてきたのに、何もなかった。自分の人生はこれで終わりだ。やってきたことを、積み上げてきた事を、否定する、壊してしまう。そのような意味です。
何かがうまく行かなくでも、「どうせ自分はダメだ」と思ったり、口にしてはならないのです。
第二は、イエスを呪ったという理解です。
保身ということをペトロが考えたとしたなら、一番効果がある行為でした。
そのような愚かさや弱さから、どのようにして自分を守ればよいでしょうか。神を賛美することです。
恐れから解放され、神の祝福を信じ、神を賛美して、歩みたいと思います。