先週の説教要約 「主がともにおられるなら」

○先週の説教要約
『主がともにおられるなら』               中道由子牧師

《ただ、背いてはならない。あなたたちはそこの住民を恐れてはならない。・・・主が我々と共におられる。彼らを恐れてはならない。》
民数記13章25〜14章10節)
 
1,約束の地の現実

 指導者モーセに導かれてイスラエルの民はエジプトを出て、紅海を渡り、シナイ山十戒をいただき、今や約束の地カナンの南の境である、パランの荒野カデシュまで来ました。カデシュ・バルネアとは「聖なる地」という意味があります。人は誰でも人生で一度や二度は、自分の運命を決定するような重大な決断を迫られる。そんな時私たちはこの「聖なる地」に立たされているのです。モーセはここで部族ごと一人ずつの偵察隊を遣わしました。その中に、エフネの子カレブ(ユダ部族)と、ヌンの子ホシュア→ヨシュア(エフライム族)がいました
 時は初ぶどうの熟す初夏であった。モーセは彼らに言った、「カナンの地の全土を探って来なさい」。そして40日後に彼らは帰ってきました。「お約束どおりカナンの果物をとってきました。アブラハムとサラの墓があるヘブロン近くにエシュコルという谷があって見事なぶどうが実っています。ざくろやいちじくもあります。まさに乳と蜜の流れるところです。」と全員が言いました。この報告で民は歓声をあげました。「乳と蜜の流れる地」とは農業生産に適した地です。土地を持たない流浪の民が喉から手が出るほど欲しかった地が目の前にあるのです。けれどそれだけではなかった。「あそこは大変な所です。攻め込もうとする敵を食い尽くしてしまう地です。町々の城壁は高く、アナク人という巨人が住んでいます。ネゲブ地方には、アマレク人、ヘト人、エブス人、アモリ人、カナン人が住んでいます!」豊かな産物である、大きなぶどうを持ってきた以上の熱心さで、いかにそこが恐ろしい、難攻不落の土地であるか、語ったのです。
イスラエルの人々の心に恐れが入ってきました。この「恐れ」はやっかいなもので、私たちの人生に神さまが約束して下さる祝福を遮るものです。
イスラエルの人たちは祝福を目の前に恐れが入り込んできた時、祝福を選ぶことは難儀なことでした。恐れはたましいを虜にします。それ故聖書に一番多く記されている単語は「恐れるな」なのです。実に366回記されています。365回ではなく、366回しるされているのはある人は神様がうるう年まで計算された、と言うのです。困難な現実に対して神様は、私たちに一日に一回ずつ「恐れるな」と言ってくださっているのです。

2,信仰による自画像

この困難な現実を前にここで二通りのグループの人を見ることが出来ます。
ヨシュアとカレブ
「カレブは民を静め、モーセに向かって進言した。『断然上って行くべきです。そこを占領しましょう。必ず勝てます。』」
 「その地を探った者のうちのヌンの子ヨシュアとエフンネの子カレブは、その衣服を裂き、イスラエルの人々の全会衆に言った、『わたしたちが行き巡って探った地は非常に良い地です。もし、主が良しとされるならば、わたしたちをその地に導いて行って、それをわたしたちにくださるでしょう。それは乳と蜜の流れている地です。』」
② 10人の偵察隊の否定的な言葉
「しかし、彼とともにのぼって行った人々は言った、『わたしたちはその民のところへ攻めのぼることはできません。彼らはわたしたちよりも強いからです。』 そして彼らはその探った地のことを、イスラエルの人々に悪く言いふらして言った、『わたしたちが行き巡って探った地は、そこに住む者を滅ぼす地です。またその所でわたしたちが見た民はみな背の高い人々です。わたしたちはまたそこで、ネピリムから出たアナクの子孫ネピリムを見ました。わたしたちには自分が、いなごのように思われ、また彼らにも、そう見えたに違いありません。』」
彼らの心に恐れが入った。それ故に否定的な言葉しか出てこなかったのです。
33節自分たちを「いなご」と評価しています。神の民であり、神の軍隊であるイスラエルを「いなご」だと言ったのです。いかに自己評価が低いか。自己評価が低いと自分を愛して、命を捨てるほど愛して、最上のものを用意して下さる神様を小さくしかみることができない。どうせ神様私なんかちょっとしか祝福してくださらないんだから。神様が「私が用意しているものはこんなに大きい。全部お前にあげるよ。」「いいんです。私、どうせいなごですから。」という態度です。全世界を造り、支配しておられる偉大な神様が「小さな私たち」を愛して私たちの罪の身代わりにひとり子イエス様を十字架につけてくださった。それほど価値がある存在として大切に思ってくださるのです。私たちは小さくても「いなご」などではない。神の像(かたち)に造られたものであり、神の尊厳をいただいています。神様が私によくして下さらないはずはありません。私たちは自分についてどのように見ているでしょうか。どのように感じているでしょうか。これは神様が私たちを通してなそうとしておられることに影響を与えます。自分の使命を果たしていけるかどうかにも影響を与えます。私たちが話しをしたり、行動し、またいろんな反応をするとき、ことごとく、自分がどういう人間だと思っているのかに即しています。私たちは、自分で抱いている自己像に調和するように、ことあるごとに一致した行動を取っていきます。「自分はこのようなことをする資格がない」とか、「私がやっても魅力がない」とか「誰かに比べても劣っている」とか「自分は相応しくない」と考えてしまうと、自分が考えていることに即した行動を取ってしまうのです。大事なことは、私たちがもっている自己像と神様が私たちに対して抱いておられる自己像が正しく調和していることです。神様が見ておられる目線で、自分自身を見ておられる方々は、どういう方であっても、たいていは満足していらっしゃるものです。自分が神様の像に似せて造られたことを自覚しておられます。神様に愛されていることを感じ、神様が大事に思って下さっていることを実感しているからです。その人は自分を思うとき、自分のことが好きです。その人に、神様はご自身が私たちにしてほしいことを任せ、なすべき力も与えて下さいます。

3,言葉に現れる信仰

良い報告の後、悪い報告を聞いた。人の心にはどっちが残るでしょうか。後の報告が強く人の心に入ります。ですから人に忠告をする時も先に注意をして褒めるのがいいと言われます。
しかしここでは不信仰な10人の偵察隊が。約束の地を悪く言いふらしたとあります。するとイスラエルの民はどう反応したでしょうか。神様が奴隷であったエジプトの地から救って下さった奇跡のわざを忘れつぶやいたのです。自分たちを祝福しようとして下さる神様の約束を全否定して、カナンの地で剣に倒れて死ぬ自分たちを想像して泣き叫びました。問題自体よりも実は問題を見ている人の視点が大切なのは言うまでもありません。この不信仰な偵察隊が犯した罪は大きかった。つぶやきと不平は共同体を破滅に追いやる罪だからです。
彼らは疫病で死んでしまいます。そして「約束の地に入るより荒野で死んだ方がいい」と言った民は荒野で40年放浪して自然死を迎えた。皆、自分の言った言葉の通りになったのです。
ここで先ほど自分のことをどうみているかということに繋がってきます。わたしなんかどうせ、と思っていたらその言葉の通りにしかなっていかないからです。反対にどうしてヨシュアとカレブはその中で積極的な言葉が出せたのでしょうか。
私たちが出す言葉は顕在意識として私たちの信仰を動かしていきます。私たちの信仰は見えない。でも祈りの言葉は神様が聞いて受け取って下さいます。
すると、潜在意識にある信仰が現れるのです。
「どうせ私はできない」と言えばその通りになります。自分の言葉の通りになっていくのです。
恐ろしい事ですが、また畏れ多いことですが、私たちが描いているように、私たちが口にする通りに私たちの人生も導かれて行きます。思いが、それを引き寄せると言いますから、イエス様は、おっしゃいました。
「求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる」(マルコによる福音書 11:24)。
 
ヨシュアとカレブは、大勢の人の報告に反対したのです。彼らが見ていたのは、神様の祝福でした。ですから「必ず、勝ち取ることが出来ます。確かに巨人たちがいます。圧倒的な力を持っています。しかし、私たちの神様はもっと強い、もっと偉大です。さあ、一気に攻めてこの土地を獲得しましょう。」これが、祝福された人生を勝ち取る人です。

4,主が共におられるなら

 信仰をもって突き進んでいくのは、決してエネルギーを使うようなものではありません。
鍵の言葉は14:9節、「主が共におられる」から信仰持って突き進むことができるのです。主が共に行くから攻めて行けと言われる時がある。その時を逃さずお言葉に従うなら必ず勝利することができるのです。
神様がイスラエルの民を怒り、不信仰なこの偵察隊が疫病で死ぬと恐れた民たちは「神が言われたようにカナンを攻撃に行こう」と戦いに出て行きます。
 あなたがたは上って行ってはならない。主があなたがたのうちにおられないから、あなたがたは敵の前に、撃ち破られるであろう。 そこには、アマレクびとと、カナンびとがあなたがたの前にいるから、あなたがたは、つるぎに倒れるであろう。あなたがたがそむいて、主に従わなかったゆえ、主はあなたがたと共におられないからである(民 14:42、43)。」
時すでに遅し!神の約束に従うに時あり!
神さまが荒野に導かれた時、信仰の決断を促したヨシュアもカレブも従いました。どうして従うことができたのでしょうか。主が共におられるからです。
 不信仰なイスラエルの民と行動を共にしたのであります。それがゆえに、2人は約束の地に入ることができたのです。優秀な人、強い信仰を持っているように見える人、行動力があり、リーダシップがある人がいます。
しかし、主が求めておられるのはそのお言葉に従う人であります。
 神の時を逃さず、お従いしましょう。祝福は私たちのものです。