先週の説教要約 「天には大きな報いがある」

○先週の説教要約
『天には大きな報いがある』            中道由子牧師
《義のために迫害される人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである。》    
マタイ5章10〜12節
 
1、 八福がひとつに
 八福の教えの最後は、迫害についての御言葉です。
「義のために迫害される人々は、幸いである」。
ここで注目したいことは、「天の国はその人たちのものである」という言葉です。
これは、最初の「心の貧しい人々は、幸いである」の後に書かれている同じ言葉です。
「心の貧しい人々」は弱々しく感じ、「義のために迫害される人々」は勇敢な人のように感じられます。しかし、実は同じ人のことなのです。
いろいろな性格の人が次々と並べられているのではなく、「義のために迫害される人」も同じ人が持っている祝福なのです
 前回まで学んだ、キリストがお示しになった様々なクリスチャンの姿は、ここに来てすべてが溶け合い、ひとつの真のクリスチャンの姿となります
 クリスチャンの歩みの本質は、イエス様が受けられた苦難にあります。
しかし、イエス様は、苦難が決して呪いや敗北ではないことを教えて下さっています。
むしろ苦難を通して栄光に到り、救いを得るのです。
もし私たちが、この世と全く線を引かないで、この世からただ歓迎され、喜ばれる存在であったとしたら、世と私たちはひとつということになってしまいます。
そういう意味において、この8番目の祝福が私たちには喜ばしくないように思えるかもしれませんが、必要な事なのです。
この御言葉で今までのすべてが引き上げられ、私たちは神様が御子イエス様をこの世に遣わしてくださった祝福が、世の中のクリスマスと違うことを私たちは再確認するのです。

2、義のための迫害
 イエス様は、「義のために」迫害される者は、幸いだと言われました。
単に迫害される人が幸いなのではないのです。
自分が正しいと思うことを実行し、そのことについて犠牲を払っても、義のための迫害を受けているということにはなりません。
自分の失敗や罪のゆえに、問題が起こり責任を問われたりしても、義のための迫害ではありません。
異端の人が熱心に間違ったキリスト教を広めて苦難を味わったとしても、また良い事を行ったために受ける迫害であっても義のための迫害ではないのです。
 では、義のために受ける迫害とはどのようなものでしょうか。
「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。」(マタイ5;11)
エス様はここで「私のために」と語っておられます。
「義のために」は、「キリストのために」であります。
このようなことを言いますと、キリストを信じていない人々や一般的な人々には、偏っていると非難されるかもしれません。キリスト以外に救いはない!と言っているのと同じですから、人々には耳障りであるかもしれません。善良な生き方をすれば事足りるのに、なぜ必ずイエス・キリストを信じなければ救われないのかと、人々は戸惑いを覚えます。
 迫害には血を流し殉教をする、赤い迫害もありますが、無視され人間関係に苦しむ、白い迫害があると言われます。家族や職場や地域から受けることもあります。
 パウロは、「確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。」(テモテへの第二の手紙3:12)と言っています。
エス様はこのような苦しみを受ける者に対して、マタイ5章11節の最後に「あなたがたは幸いである。」と語っておられます。
それまでは、そういう人は幸いである、と語っているのに対して、義のために迫害を受ける人々の幸いについては、「あなたがたは」と、主は呼びかけておられるのです。

3、天の御国を得る
 義のために迫害される人への祝福、それは天国です。
山上の説教は天国に始まり、天国に終わっています。
天の御国を想う人だけが、この世において欠けるところのない、満ち足りた人生を送ることが出来るのです。神様のご支配の中に身を置く祝福であります。

5章12節は、口語訳聖書では「喜び、喜べ」と訳されています。
これは、クリスマスの喜びでもあります。
私たちが受ける小さな辱め、小さな苦しみを、ご自分の恥、苦しみとしてすでに主は引き受けて下さっておられるのです。