2021年1月24日の説経要約 「勝利者イエス様」

2021年1月24日の説経要約

                              「勝利者エス様」   照内幸代牧師

「すると長老の一人がわたしに言った。『泣くな。見よ。ユダ族から出た獅子、ダビデのひこばえが勝利を得たので、七つの封印を開いて、その巻物を開くことができる。』」

                     ≪ヨハネの黙示録 5章5節≫

       

本日はヨハネの黙示録の五章を読みます。

「一節」とありますが、ヨハネは御座についておられる方、父なる神様の手の中に巻物があるのを見ました。それは七つの封印で封じられていました。七つの封印で封じられている巻物とは、それは遺言書のことを指します。当時のローマの法律では、遺言には七人の証人によって封がされ、その七人の立ち合いの元か、相応しい証人が立ち会わなければそれを開封することはできませんでした。父なる神様の手の中にある巻物。それは神の遺言、この世の最期のときについて記された神の奥義だったのです。ところが封印を解くのにふさわしい人がだれも見つからなかったので、使徒ヨハネは激しく泣いたとあります。

どうしてヨハネは激しく泣くのだろうと不思議に思われるかもしれません。ヨハネの黙示録の続きを読めばわかる通り、この封印を解くことによって、激しい艱難が地上を襲うということが明らかだからです。またイエス様が福音書の中でも予告している通り、天体が揺り動かされ、人は人に敵対し戦争が起こり、地震や隕石などの甚大な被害が及びます。その恐ろしい出来事が起こると知っている人にとっては、いや、この封印は解かれない方が良いのではないかと思えてくるほどです。

しかしそれは同時に、正しい裁きが地上に行われないことを意味するのです。この神の遺言書を開封し、この世の終わりのときがもたらされなければ、それはすなわち、この世界にはずっと罪と悪がはびこり続けるということを意味するのです。そして先に眠りについたクリスチャンたちの復活のときも、先延ばしになり、神様によってもたらされる新しい天と地も来ないということ、救いが完成しないことを意味するのです。それは愛なる永遠なる神様との和解も起きないことを意味します。神様との関係が回復せず、私たちが滅びの道を行くことを意味するのです。それはヨハネにとって、何よりも悲しいことだったのです。

 

ヨハネが泣いていると、長老の一人が言います。「五、六節」。神の遺言を開けるのに相応しい証人が現れたのです。それはまことの神、まことの人なるイエス様でした。イエス様だけが、天においても地においても、神の巻物の封印を解くことができる、相応しいお方であったのです。

まず彼はユダ族から出た獅子、ダビデの根であるということでした。彼が正統なるメシア、救い主であるということ、これが一つ目の条件だったのです。神様は旧約聖書において、ダビデの家系からイスラエルの王をお出しになるということを約束していました。ですから旧約聖書の預言において、メシア、イスラエルの救い主はダビデの子孫であるということが約束されていたのです。神様がかつてアブラハムモーセダビデと交わした契約を忘れることなく、真実な方であるという証拠です。巻物の封印を解くのは、神様の約束の子であるダビデの子孫、イスラエルの正統な王になることができる人なのです。

二つ目に、それは屠られた子羊であるということでした。旧約聖書の時代、イスラエルの民は罪祭と言って、自分が罪を犯したときには、その許しを祈ってもらうために生贄を祭司のところに持っていきました。そのいけにえは、傷のない子羊でなければなりませんでした。その子羊の上に手を置いて、自分の罪をその子羊に負わせ、子羊の血が流されることによって、神にその罪が許されました。また出エジプト記では、神は十番目の禍として、エジプトの家畜も人間もすべて、その長子が死ぬという禍を起こされました。しかし、子羊の血を家の門に塗った家だけは、主の使いが過越していき、禍をまぬかれることができました。主の裁きの過越し。子羊の血によって、その家は神の民であるという印となったのです。

この神の子羊ユダヤ人の王として、また神の子として、そしてまことの人として十字架にかかって血を流されたお方は、屠られたときのままの姿で登場します。すなわちその身に十字架を受けた傷が、治ることなくそのままになっていたのです。主イエス様の復活の出来事の記録を読んでも、主イエス様は弟子たちに手の傷と脇腹の傷をお見せになっています。主イエス様は栄光のお姿となって復活し、その顔は光輝き、衣は雪のように白くなって、神なるお方として現れるのに、そのお姿には傷が残っているのです。十字架にかかられたその傷が、主イエス様の復活の姿、栄光のお姿となって、贖いのしるしとなっているのです。私たちがどれほどイエス様から大きな愛を受けたかお分かりになるでしょう。主イエス様は、その身に傷を受けることを良しとされたのです。私たちがその十字架と復活を信じて、神様から救いを受け、永遠の命に与る者となるために、その傷ごと復活してくださったのです。イエス様の体にある傷は、まさに私たちへの愛のしるしなのです。

私たちは今、忍耐の中にいるかもしれません。なんで自分は神の前に正しく生きているのに、こんな目に遭わなければならないのだろう。なぜ神を神とも思わない人が、いい思いをして生きているのだろう。そう思えるような毎日かもしれません。しかし神様は、必ず正しい裁きを行われます。それはもしかしたら、私たちが生きている間ではないかもしれません。けれども私たちは必ずみ使いによって神様に迎え入れられ、神様の子として復活に与ることが約束されているのです。私たちは、今週も神の民として、失望しないで、勝利者なるイエス様を見上げて過ごしましょう。

2021年1月17日の説教要約  「目に見えない神を信じる」

2021年1月17日のオンライン礼拝説教要約

          「目に見えない神を信じる」     中道善次牧師

 

「今、もしあながた彼らの罪を赦してくださるなら-。しかし、もし、かなわないなら、どうかあなたがお書きになった書物から私の名を消し去ってください。」

                                                                                      ≪出エジプト 32章32節≫

 

 

今日、出エジプト32章から聞き取るメッセージは、第二戒と関係があります。

第二戒は、「あなたは自分のために彫像を造ってはならない」です。

第二戒を出エジプト32章の物語、イスラエルの人々が金の子牛を拝んだことと連づけながら、お話しします。

 

①主なる神を形にする

第二戒の「自分のために彫像を造ってはならない」。

これを日本人が、日本の文化背景の中でふつうに理解するならば、神社やお寺にまつられているご神体や仏像、また仏壇や神棚などに手をあわせてはならない。そのようになります。

それだけでなく、教会学校では、次のようなお話しを聞いてまいりました。

偶像は、外側の形だけでない。心の中にも偶像を作らないことが大切である。

日本では「アイドル」という言葉が職業のように使われることがあります。芸能活動をして、人々が夢中になる対象であります。ところが、日本語で「アイドル」と使っている言葉は、英語になおすと「偶像」となります。

それは芸能人だけでなく、わたしたちの心を奪い夢中にさせるもの、すべてがアイドルとなるのです。

主なる神以外のものに心が奪われているなら、あなたの心を奪うものがあなたの偶像になっているのです。

ここまでのお話は、多くの方が、かつて聞いてこられことでしょう。

しかし今日聞き取りたいのは、目に見えない神を信じ、その神によって救われたイスラエルにとって、この第二戒は、どのようなことを意味していたかです。

「自分のために彫像を造ってはならない」。

それは、私たちの信じている主なる神(ヤハウエ)を「かたち」にしてはならない、ということであります。

「主なる神」を「かたち」にしたのが、出エジプト記32章の「金の子牛」であります。

本日の聖書箇所にあるように、モーセは40日間、シナイの山に登り、神から戒めを授けられました。なかなか降りてこないので、人々は不安に駆られました。

イスラエルの民は、モーセが長期間不在だったので、死んだかもしれないと思ったのです。そして、その代わりに、目に見える神々をアロンに求めたのでした。出エジプト32章1節参照

その結果作り出されたのが、金の子牛でした。出エジプト32章4節参照

自分のために彫像を造ってはならない。そう言われていたのに、私たちのために神々を造ってくださいと願ったのです。

何故、子牛だったのか。それはエジプトと関係があります。

出エジプトの十の災いの時、家畜が疫病になりました。そこに牛もいました。エジプト人は牛を礼拝の対象としていました。アピシス、聖別された牛で、子牛をかたどっていたのです。

指導者を見失ったイスラエル人は、自分たちの古いスタイルの宗教に戻ろうとしました。そこで選んだのが、エジプトで拝んでいた「牛」の形をした神だったのです。

彼らの行為は、異教の偶像礼拝と少し違うのです。

彼らの「金の子牛」は、主なる神を目に見える「かたち」にしたものです。

目に見える形の「主なる神」を拝むスタイルだったのです。

出エジプト32:5~6を見ますと、イスラエル人は金の子牛を作っておきながら、「明日は主(ヤハウエ)への祭りである」と言い、焼き尽くすいけにえと会食のいけにえを献げたとあります。

彼らは、主なる神を礼拝するための犠牲、焼き尽くすいけにえ、会食のいけにえ、を献げたのです。

主なる神への礼拝が、世俗的なものに引き下げられたのです。そして低い道徳が見られました。それは、宴会と性の乱れでありました。

ここには、形あるものを拝む方が安心するという人間の心理をたくみに利用しているのです。

これと同じ事は、現代にも見られるのです。

キリスト教を名乗る宗教が、ある国では、偶像礼拝のようであると宣教師から聞いたことがあります。

また、像を教会の中におかないプロテスタントの中にも、似た要素があるのです。

出エジプト32章で金の子牛を拝んだ人々の信仰は、刻んだ像を拝んだというスタイルと共に、その内面にあったのは、指導者依存型でありました。見える指導者への強い依存が、信仰をゆがめてしまったのです。

目に見える強いリーダーであるモーセがいなくなって、不安になったのです。その代わりの目に見える依存するものが必要だったのです。

信仰者の中には、強いリーダーシップを持つカリスマ的指導者に依存する傾向の強い人がいます。

もう一つ、私達日本人の信仰心の中に潜むアイドルがあります。それは御利益心であります。ご利益を求める心が、私たちのキリスト教信仰を強く支配してしまうなら、祈りのすぐに答えてくれない神様は役に立たない神になってしまうのです。

神を偶像のようにしてしまう心が、私の内側にも潜んでいる。そのことに気をつけることが大切です。

 

②父よ、彼らを赦したまえ

神様は、一度お決めになられた事であっても、私たちが祈るとき、執り成すとき、「お前の願いを聞こう」とおっしゃることがあるのです。

そのひとつが、出エジプト32章であります。ここでイスラエルは、金の子牛を拝みました。妬む神である主は、このイスラエル背信に激怒したのです。それでおっしゃった言葉が、出エジ32:7~10であります。

ここを見ると、神様が怒りに燃えて、「私をとめるな」と言っておられます。

もういい。イスラエルなど要らない。モーセよ。お前の子孫を大いなる民として、イスラエルの代わりとする。

しかしモーセは、ここで神を説得しているのです。なだめているのです。

それが出エジプト32:11~14です。

モーセの祈りによって、神はイスラエルを滅ぼすことを思い直されたとあります。

モーセは、自分の名が大きくなることよりも神の名誉が重んじられることを大切にしたのです。イスラエルを滅ぼして、お前を大いなる国民とするという申し出を断ったのです。

主の祈りの最初の言葉「御名が崇められますように」は大切です。それは、単に神様を称えますではなく、神の側に立って、神様の名誉が重んじられる祈りなのです。人々が神様を称え、素晴らしいというようにと言う祈りです。それが「神様の側に立つ」ということです。

モーセは、神様のお立場を考えたのです。人々が、エジプト人が、あなたのことについて何というかをお考え下さい。そのように神様の名誉を重んじたのです。

出エジ32:30~32のモーセの祈りの最後の部分を御覧ください。彼らの罪が赦されなければ、自分の名前を「書」から消してくださってもかまいません。そのような祈りを献げました。その祈りが、彼らを滅びから命へと引き返したのです。神が、滅ぼそうと決めていたものを「思い直された」のであります。

ここでの「書」とは、天国に行けるかどうかというリストとより、ここでは、イスラエルを滅ぼすのならば、わたしも彼らと一緒に滅ぼしてください。

神様の書とは、神が生きているものの一覧表を持っておられ、死ぬべきものをその都度、その表から削除するということであります。

モーセは、わたし一人が残って、そこから民が形成されるのは嫌です。

ここでなされた、モーセの執り成しの祈りは、イエス様の十字架の上の執り成しの祈りに通じるのです。

私が身代わりに死にます。民を滅ぼさないでください。父よ、彼らをお赦しください。

エス様が罪人のために身代わりに死んだように、私もこの民のために死にます。

モーセの祈りの中に、私たちの身代わりの犠牲となられたイエス様の姿を見るのであります。

私たちは、罪赦された者でありながら、人を責めてしまいます。しかし大切な祈りは、私が赦されたように、彼らも赦されますように、であります。

2021年1月10日の説教要約 「私の顔が一緒に行く」

2021年1月10日の説教要約

                      「私の顔が一緒に行く」   中道善次牧師

 

  「私が自ら同行し、あなたに安息を与えよう。」

             ≪出エジプト 33章12~14節≫

 

旧約聖書を読む時、私たちは顔で人を判断するのと同じように、神様を表面的に理解しようとします。旧約聖書で描かれている神様の一般的な印象は、「恐いお方」という印象です。特に罪に対して、厳しい。しかし旧約聖書をよく読み、理解してまいりますと、旧約聖書に登場する神様もまた大変優しいお方であることがわかります。

今日は、出エジプト33章から、神様の優しさを学んでまいりたいと思います。

 

1, お気に入りの自覚

日本人のユダヤ教学者の本では、旧約聖書では神様を大変人間くさく描いていると言います。

また聖画を解説して、メッセージを語る牧師も次のように語ります。聖画では、神を人間の姿のように描くが、それは神を理解しやすくする為である。

神が人間臭く描かれているのが、出エジ33章であります。

この箇所は、モーセのとりなしの祈りの第二弾であります。金の子牛を拝んだイスラエルを赦してくださいと命がけで執り成した32章に続く祈りであります。

イスラエルの赦しを32章で祈ったあと、33章では、神様、変わらずに一緒にいて、民を導き上ってくださいという祈りであります。

ところが神様の側では、たいそう機嫌を悪くされ、もうこの民とは一緒に行かない。私がまた激怒して彼らを滅ぼす事がない為だとおっしゃる。

人間くさい神様のお姿が描かれているのが、出エジ33:3です。

出 33:3 あなたは乳と蜜の流れる土地に上りなさい。しかし、わたしはあなたの間にあって上ることはしない。途中であなたを滅ぼしてしまうことがないためである。あなたはかたくなな民である。」

その言葉に対して、モーセは食い下がって、神様、あなたが一緒でないと困ります。一緒に行ってください。そのように12節からとりなしをするのです。

33章2節では、「わたしは、使いをあなたに先だって遣わし」とあります。

少なくとも天使が一緒にいってくれるのなら、それでもいいと思うのですが、モーセは、神ご自身が一緒でないといけませんと、食い下がって祈るのであります。

その鍵になる言葉が、新共同訳の言葉では「好意を示す」です。33章12節、13節に2回、16節、17節。34章9節と、合計6回も出てきます。

出 33:12 モーセは主に言った。「あなたはわたしに、『この民を率いて上れ』と言われました。しかし、わたしと共に遣わされる者をお示しになりません。あなたは、また、『わたしはあなたを名指しで選んだ。わたしはあなたに好意を示すと言われました。

出 33:13 お願いです。もしあなたがわたしに御好意を示してくださるのでしたらどうか今、あなたの道をお示しください。そうすれば、わたしはどのようにして、あなたがわたしに御好意を示してくださるかを知りうるでしょう。・・・」

出 33:16 一体何によって、わたしとあなたの民に御好意を示してくださることが分かるのでしょうか。あなたがわたしたちと共に行ってくださることによってではありませんか。・・・」

出 33:17 主はモーセに言われた。「わたしは、あなたのこの願いもかなえよう。わたしはあなたに好意を示し、あなたを名指しで選んだからである。」

出 34:9 言った。「主よ、もし御好意を示してくださいますならば、主よ、わたしたちの中にあって進んでください。・・・」

「好意を得る」。これを平たい言葉で言いますと、「お気に入り」です。

私たちも、お気に入りからおねだりされたら、何でも聞いてあげるのではないでしょうか。

神様は14節でおっしゃるのです。私が一緒に行く。

ここでモーセは、お気に入りの子どもが親にお願いするような気持ちで、神様に祈ったのです。神様、あなたは、厳しいことを言われても、私たちのことを温かい目で見てくることを知っています。ですから、一緒に行って下さい。お願いします。

いかがでしょう。私たちも、神様に気に入られている事を、大胆に信じたいと思います。

 

2,神を笑顔にしたモーセ

ある団体の教会の礼拝堂には「我が臨在、汝と共にゆく」という文語体の書が掲げてあります。

それは出エジプト33章14節です。新改訳2017では「私の臨在がともに行き、あなたを休ませる。」です。

新共同訳では、出エジ 33:14 「わたしが自ら同行し、あなたに安息を与えよう。」です。

新改訳2017の注を見ますと、「臨在」という箇所にコメントがしてあります。直訳は「顔」とあるのです。私の顔が一緒に行く。

その顔は、にこにこしている笑顔であります。

旧約聖書の人々は、神様の顔を意識しました。

民数記6章の終わりは大祭司の祈りと言われます。

民6:24 主があなたを祝福し、あなたを守られるように。

民6:25 主が御顔を向けてあなたを照らし、あなたに恵みを与えられるように

民6:26 主が御顔をあなたに向けて、あなたに平安を賜るように。

大祭司の祈りの中で二回も「御顔」が出てくるのです。御顔とは、神様の祝福を表現する言葉であります。

私の顔が一緒に行くというのは、怒った顔で、しょうがないから一緒に行くことではないのです。

いつも祝福を与える笑顔で一緒に行くのです。

聖書の中に「御顔」という表現が多く出て来ますが、新聖歌、賛美歌の中にも「御顔」という言葉がたくさん出て来ます。

その中で三つだけ紹介いたします

207番 みかおをみぬとき、すべてはいみなし

220番 うきくもおおえど、御顔の笑みは

316番 みかおのえみ、輝くとき

優しい笑顔とまなざし。それが、私たちがいつも意識する神様のお顔です。

そのまなざしは、祝福の笑顔です。また、私たちの歩みをいつも見守っているまなざしです。

尾花晃先生が、デボーション、神様と交わりを持つときのことで少し極端な表現をされました。

それは、一日にたった5分でよい。神様のみ顔をみること。これで十分だ。

今日も神様の祝福の笑顔が自分に注がれている。そのことを確かめて生きることが大切であります。

神様の変わらない笑顔、祝福をしっかりと受け止めて、この一年を歩ませていただきましょう。

お祈りしましょう

2021年1月3日の説経要約 「主の安息に入ろう」

2021年1月3日の説経要約

    「主の安息に入ろう」  中道由子牧師

 

安息日を心に留め、これを聖別せよ。≫

出エジプト20章8~11節)

 

週報とホームページに新年の聖句が掲載されています。そのみ言葉の中の「安息」ということを取り上げて話します。

 

1,十戒の中の第四戒

 ここには、安息日に関する4つのことがまず書かれています。

1)(8節)それを聖なる日とする。

 旧約の時代には、金曜日の日没から土曜日の日没までが安息日とされました。ユダヤ人にとっては、神を礼拝し、家族で交わる時でありました。新約の時代になって、主イエスが日曜日に復活されてからは、教会は日曜日を聖日として守るようになりました。その日は他の日とは違う、特別な日なのです。

マタイによる福音書4章4節で「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。」とイエス様がおっしゃったように、ただ食べて休むだけでは、本当に魂に安らぎが与えられないのです。

2)(9節)一週間のうちの六日間ですべての仕事をしなければならない。

 昔イスラエルの民が荒野でマナという食べ物が天から与えられました。毎日必要な分だけ与えられたのですが、六日目には2倍の量が与えられていた。毎日与えられるマナは次の日まで残しておくと、虫がついて臭くなった。でも6日目に集めたものについては、次の日の分を残しても虫がつかなかったのです。そして7日目は安息日だからマナを取りに行っても何もなかったのです。

3)(10節)七日目は主の安息なので、誰もどんな仕事もしてはならない。

 私たちは仕事をしだすと夢中になります。今はインターネットの時代ですから、朝から晩までパソコンに向かう生活になっています。また、若者たちもスマホがないと落ち着かない。こういうことからも離れて、創造主なるお方のために時間を取ることが人間には必要なのです。

4)(11節)安息日を守る理由は、主が六日間で天地を造られ、七日目には休まれて祝福されたから。

 神様はご自分の仕事に満足なさり、第七日目の安息の日を「祝福し、聖別された」のです。この日は、聖い日として主なる神の喜びにあずかる日です。ある人が、「6日間、世の中で働いていると心がすさんでくる。周りにぶつぶつ文句ばかり言っている人がいる。汚い言葉で人をののしる人もいる。そんな中にいると知らないうちに自分も影響を受けてしまう。礼拝で、賛美と祈りの中に身を置いて、本当に癒されていく。」と。心が浄化されるわけです。私たちの外見は肉体しか見えません。が、魂、霊がうちにあります。私たちの霊は神様と交わりを持ちます。そして、感情を持った私たちは笑ったり、泣いたり、喜んだりすることにより心が解放され、癒されていきます。礼拝の中でそのことが起こると魂が回復されるわけです。

 バビロン捕囚から解放されたイスラエルの民が律法の書を総督ネヘミヤや祭司エズラから読み聞かせてもらった時、泣いたのです。その時、ネヘミヤ記8章10節「今日は、われらの主にささげられた聖なる日だ。悲しんではならない。主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である。」

セレブレイションという言葉がありますが、これはまさにお祝いなのです。主を賛美して、み言葉を聞き、祈り、そして、イスラエルの人は食べたり飲んだりして、大いに喜び祝いました。

今私たちは、この飲食ができなくて、残念ですが、主の日は喜びの日であることを覚えていただきたい。

 

2,安息年

出エジプト記23章10、11節「あなたは六年の間、自分の土地に種を蒔き、産物を取り入れなさい。しかし、七年目には、それを休ませて、休閑地としなければならない。」

ここでおもしろいのは、人だけでなく、土地にも休みを取らせる律法があることです。農耕の7年目を「地の全き休み」とする「安息の年」の規定です。耕さない、肥料をやったり、収穫をしない、全く休ませる1年です。

”Take The Day Off” ロバート・モリス著から、土地の安息について興味深い文があります。農業調査によると、土地を2、3年休ませると収穫が良くなる、という結果が出ているそうです。土の中の栄養が使い尽くされて、枯渇して、土自身が回復してくる。今は、農業に携わる人たちはいろんな穀物を回転させて、それらを効果的に収穫するためにたくさんの肥料を使うそうです。しかし、そのような方法ではなく、一番健康で自然なやり方は土地を休ませることだそうです。しかし、歴代誌下には、イスラエルの人々はこの律法を守らなかったとあります。彼らは土地を7年ごとに休ませることをしないで、ずっと使い続けて、490年も安息年を守らなかった。その結果、ユダの人たちはバビロンに侵略され、捕囚の民として、バビロンに連れて行かれました。連れて行かれてしまったので、イスラエルの土地は休ませるしかありませんでした。何年も何年も何も植えられなかったのです。

歴代誌下36章21節「この地はついに安息を取り戻した。その荒廃の全期間を通じて地は安息を得、七十年の年月が満ちた。」

490年休ませることをしなかったら、バビロン捕囚により7年ごとの70年をきっちり休ませられたわけです。きちんと休ませる、そのことが満期となり、十分なされるまでユダの地の回復はなかったのです。ユダの人たちは、神様が土地に対して7年ごと休ませなさい、と言われたことは本当にそうなさるのだと、やっとわかったのです。結局彼らはそこを離れることで、7年ごとの土地の休閑をせざるを得なかった。同じように、7日の内一日休みなさい、という神様の命令を無視することはできるでしょう。でも、いつか請求書がたまって、年間52日の安息の日をまとめて支払うことになりはしないでしょうか?

私たち日本人は、まじめなので休みを取ることが下手ですし、罪悪感を感じてしまいます。今、この新型コロナウイルス感染症により、リモートで会議をもつようになりました。私たちの生活も変わってきました。家にいましょう、休みを取らされている感じです。生活のペースを落とすことになりました。そして、肉体的にもひと時の休息が与えられ、精神が解放され、祈りが具体化されていきます。

 

3,安息日は誰のために

 それは、まず私たち自身のためです。

私たちは十戒の中の第4戒がそんなに大切かという実感がないかもしれません。6戒以降の「殺してはならない」とか「姦淫してはならない」「盗んではならない」の方が大切に思えます。しかし、パウロはコリントの信徒への手紙6章19、20節「あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたは自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。」と言っています。

また、この安息日は私たちの周りの人たちの休息のためでもあります。

出エジプト記23章12節「あなたは六日の間、あなたの仕事を行い、七日目には、仕事を止めねばならない。それは、あなたの牛やろばが休み、女奴隷の子や寄留者が元気を回復するためである。」

主人が休むなら、それは家畜にも、奴隷にも、また在留異国人にも休みを与えることになります。自分だけは安息を取っていても、お腹も空きますし、掃除も洗濯もしてもらう。家畜にも、奴隷たちにも休みを与える必要があります。

こうして私たちを礼拝に送り出してくれる家族に感謝しましょう。

皆さんが笑顔で、元気に教会から戻られることは何よりもご家族の祝福です。

2020年12月27日の説経要約 「聖なる聖なる聖なる神様」

2020年12月27日の説経要約

                            「聖なる聖なる聖なる神様」   照内幸代牧師

 

「彼らは、昼も夜も絶え間なく言い続けた。『聖なるかな聖なるかな聖なるかな、全能者である神、主、かつておられ、今おられ、やがて来られる方。』」

                     ≪ヨハネの黙示録4章1節~8節≫

 

本日はこの聖書箇所から、聖なる神様を礼拝するとはどういうことなのか学びたいと思います。

まず「四つの生き物」ですが、このセラフィムという天使は、昼も夜も休みなく、神様を褒め称えているとあります。私たち人間からすると、それは疲れないのかしらと思いますが、このセラフィムは、休みなく神様を褒め称える者として、神様がお創りになられた存在であるということです。つまり賛美することが彼らの使命なのです。彼らは神様を賛美するものとしてつくられたので、休みなく賛美することができるのは、彼らが使命に生きているということです。私たちも神様から作られました。神様によってつくられたということは、私たちもまた、それぞれに使命や役割を神様から与えられているということです。それは一人一人違いますが、その使命や役割というものは、神様の御心にかなうものであるということ、そして決して自分を損なうものではないということです。皆さんはどのような使命を神様からいただいたでしょうか。このセラフィムのように、神様を礼拝することを使命として与えられ、神様を礼拝することは自分にとって生きがいですというお方もいらっしゃるでしょう。私は会社で働くことが使命です。会社で働くことは私にとってちっとも苦ではありません。そして経済的に教会を支えますという人もいるでしょう。あるいは私は手先が器用なので、飾り物を作ることが好きです。教会にイースター飾りを捧げるのが毎年の楽しみですという人もいるでしょう。これらのどれをとっても、ある人にとっては本当に大きな苦痛であったりします。ですから自分がそれを喜んでできるということは、特別なことなのです。神様があなたをそのように生きるようにと願ってくださり、その賜物を与えてくださっているということなのです。祈ることでも、教会に来て礼拝をするということでも、もし皆さんが何か苦に感じずにできることがあれば、それを大事に続けなさると良いと思います。もしかしたら神様はそのために、みなさんをそなえていらっしゃるのかもしれません。

 

ただ賛美をしてハレルヤと神様をたたえるのも良いですが、もう一つ、大事な神様を褒め称える方法があります。それが、神の前に自らを低くするということです。この24人の長老たちは、頭に冠をかぶっていました。しかし彼らはこれを主なる神の前に投げ出し、自らを低くすることで神様を礼拝しているのです。この頭の冠は主なる神様が与えられる栄光の冠です。神様に忠実に歩んだ聖徒たちが、神様からいただく冠なのです。ところが10節11節にはこうあります。「主よ、私たちの神よ、あなたこそ栄光と誉れと力を受けるにふさわしい方」。この神を前にしては、自分の栄光なんて取るに足りない。本当にこの冠が相応しいのは神お一人に他ならないと神様の前にひれ伏すのです。自分を神の前に低くすること、これがもう一つの大切な礼拝なのです。

しかし私が最近思わされていることは、この地上にあっては、神様を礼拝できるということだけで私たちは豊かな恵をいただいているんだということです。私たちは健康がなければ、神様を礼拝することができません。具合が悪かったり、体のどこかが痛むだけで、礼拝に集中することができないのです。また環境も恵まれていなければ、会堂に集まって主を礼拝するということができません。今年新型コロナウイルスによってもたらされた脅威は、本当に礼拝ができるという恵について思わされました。私たちがこうして主を礼拝できるということは、決して当たり前のことではありません。主が私たちを恵み、礼拝者として必要とし、お用いくださったということを感謝したいと思います。

2020年12月20日の説経要約 「独り子をささげる愛」

2020年12月20日の説経要約

                  「独り子をささげる愛」   中道由子牧師

 

≪御使いは言った、「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」≫(創世記22章1~14節)

 

 

 今日はアブラハムの信仰のクライマックスの部分から、クリスマスの神の愛につなげてお話しします。

 

1,信仰の試練

イサクが誕生し、様々な出来事の中にも順調に成長し、神の約束がこのまま成就して行くかに思われた時、神はアブラハムを試練に遭わせました。試練は突然臨みました。それも、約束の子イサクに関係のある試みでした。

2節「神は命じられた、『あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。』」

 モリヤという地は、神様の選びの地で、おそらく現在のエルサレム市内かその周辺の山地あたりです。やがて主イエス様はこのエルサレムで私たちの罪の贖いのために十字架にかかられるのです。

 全焼のいけにえにするためには、人は動物を殺さなければならない。そしてその後それを全部献げ、祭壇の上で焼いて煙にしなければならないのです。アブラハムはイサクを完全に献げるように命じられたのです。このような神の命令に対して、アブラハムは様々な点で反論することができたはずです。

第一に、「全焼のいけにえ」としてささげるということは、「人を殺す」ことになり、神ご自身の命令(創世記9章6節)に反するものです。

第二に、親が自分の子を殺すということは人情に反する。

第三に、イサクは神がアブラハムに与えた契約の子であり、このイサクを殺すことはイサクを通して成就するはずの神の約束と契約が無に帰するということです。

しかし、彼は反論せずに主の命令に従ったのです。なぜでしょう?

神は冷酷なお方ではなく、愛なるお方であることを信じていたのです。神が「献げよ」と言われるには、何か特別なご計画を持っておられると信じたのではないでしょうか。

神様が私たちに、私たちが最も大切にしているものを献げることを求められたら、私たちはどうするでしょうか?それぞれにとって大切なものは違うと思います。ある人にとっては、伴侶であったり、子供であったり、また孫であったりするでしょう?ある場合は、恋人であったり、親であったりもします。私たちが一生懸命働いてきた仕事であるかもしれません。また、自分自身が頼りにしてきたポジション、立場であったりということもあるでしょう。時には、主のために必死で仕えてきた奉仕でもあります。 

「それを献げなさい、私の手に委ねなさい。」と神様から言われたら、私たちはどうするでしょうか?

 アブラハムは主の命令に速やかに従いました。3節「アブラハムは朝早く起きて」事を実行に移したのです。主の命令には即座に従うことが、一番従いやすい道です。「後で」ということは、従うことをより困難にします。次に彼は、自ら労苦して主の命令に従いました。彼は自分で全焼のいけにえのためのたきぎを割って準備しました。

そして、3節「神の命じられた所に向かって行った。」

 彼には、神の命令に従うのだから、主は必ずご自分の計画を実現してくださるという確信がありました。それ故に彼は、従者に対して、5節「私と息子は、、、また戻って来る。」と言うことができたのです。

 

2,主の山に備えあり

アブラハムたちが住んでいたベエル・シェバからモリヤの地まで3日にわたる旅路でした。とうとう3日目になって目的地が見える所まで来ました。アブラハムは、全焼のいけにえを献げる場所の近くに従者たちを残します。アブラハムは息子イサクといけにえを献げる場所に上っていきます。これまで、犠牲を献げる場合には、いつでもアブラハムは一頭の子羊を連れて行きました。しかし、この時祭壇に献げられる自分の運命を全く知らないイサクが、いつもならいるはずの動物がいないことを知って、「わたしのお父さん、焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか。」と、アブラハムの胸を射抜くような質問をします。この言葉にも、アブラハムは自分の心の秘密を表しません。

ただ確信を持って、8節「神が備えてくださる」と。

 誰にでも、大切にしている宝があります。それを失いはしないかと、ほんのちょっと考えるだけで私たちは震えおののいてしまいます。私たちは、愛する者の容体が悪くなったり、ゆるやかであるけれども次第に悪化していく様を見るだけで、心が裂かれる思いになります。 私たちの愛する者は、私たちがどのようにそばに置こうとしても、やがては去っていきます。しかし、アブラハムの場合は、彼自身が打撃を加える側に立たなければならないという苦悩が加わっていました。イサクにとっては、父親の最後の姿は、刀を振り上げている姿になるのです。

アブラハムは告げられた場所で、祭壇を築き、たきぎを並べ、イサクを縛り、イサクを祭壇のたきぎの上に置いて、手を伸ばし、刀を取って、自分の子をほふろうとしました。イサクはまったく抵抗をしている様子がありません。私たちはここで、アブラハムの主に対する従順だけではなく、イサクの父に対する信頼を見る思いがします。

 刀が高く振り上げられた時「アブラハムアブラハム。」主の使いの声が遮りました。11節「はい」と答えるアブラハムは、冷静でした。主は、アブラハムの行為とその心をみておられた。主は彼が、イサクを献げたと認められるまで、黙しておられた。アブラハムの献身を確認した時、ついに御声をかけられたのです。「その子に手を下すな。」

アブラハムが目をこらして見ると、一匹の雄羊がやぶに角をとらえられていました。アブラハムはその雄羊をとらえて、息子の代わりに焼き尽くすいけにえとして主に献げることができたのです。アブラハムは、ここで感謝の気持ちと、心からの献身の思いを表しました。

その場所は「ヤーウェ・イルエ」、「主の山に、備えあり」と名付けられました。

私たちが最上のものを神に献げ、私たちの賜物を火に通し、それらのものを御心の前に明け渡すなら、神は精錬された金のようにして返してくださるのです。

私たちが犠牲を献げる山に来るまでは、神からの助けは来ません。私たちが、これ以上の窮地はないというところまで追いつめられないと、神の道が備えられないことがあります。私たちのイサク、それは何でしょうか?その私たちのイサクが祭壇に乗せられ、刀を振り下ろそうとするときに、主の使いが来て救いの道を開くのです。神様は時に私たちには不可能なことを命じられますが、不可能に思える神のみ言葉に従う時、問題は解決されます。

最後にここから、クリスマスのメッセージを語りたいと思います。

 

3,神がささげた独り子

アブラハムが献げた独り子は殺されませんでした。天の使いのストップがかかり、神様はちゃんと身代わりの雄羊を備えてくださったのです。

しかし、神の独り子は、私たちの罪のために死ぬために生まれてくださいました。イサクが、祭壇の上に従順に従ったように、主イエスは死に至るまで従順であられました。

 イサクは、父親が自分のそばにいることをはっきりとわかっていました。そして死を免れました。しかし、キリストは十字架上で父なる神の愛を意識できず、御父に捨てられました。アブラハムは独り子を殺さずに済みました。しかし、私たちの天の父なる神は、独り子イエス・キリストを十字架につけて、死に追いやりました。

 このクリスマスは、父なる神が私たちに御子イエス・キリストをくださった喜ばしい時です。しかし、それは、神の大きな苦悩と犠牲の上にある喜びでもあることを覚えたいと思います。

ヨハネによる福音書3章16節「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。それは、御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」

2020年12月13日の説教要約  「学者たちの献げ物」

2020年12月13日の説教要約

       「学者たちの献げ物」   中道善次牧師

 

「家に入ってみると、幼子は母マリヤと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。」

                      ≪マタイによる福音書2章11節≫

 

 

 マタイ2章1~12節

 

①王の誕生を知った人々の反応

 ここには4つのタイプの人々が登場すると言えます。

第一は、ヘロデ王。これを表面的な喜びをする人と言っていいでしょう。

ヘロデは、8節で、生まれた王を礼拝しますといっていますが、本当は殺そうと思っていました。喜びは表向きの顔にすぎませんでした。

インドで働くブラジル生まれの宣教師がクリスマス時期の日本に来て驚きました。日本中がクリスマスをお祝いしているようだ。日本はまるで、キリスト教国のように思えた。でも本当のクリスマスの意味を知って喜んでいる人々はほとんどいないことを知り、がっかりしました。

クリスマスという言葉は、キリストのミサ、つまり、キリスト礼拝という意味です。だからクリスマスには礼拝をしなかったら、本当のクリスマスにはなりません。

 第二は、「不安を抱いた」人々です(3節)。特にエルサレムに住む人々は、新しい王が生まれた事で何が起こるかを予想して恐れているのです。ヘロデ王は、自分の王位を狙う人々を、自分の兄弟であっても、殺していったのです。ヘロデの狂気する姿が16節以降に書いてあります。

クリスマスは、私たちの心の中にイエスを神として礼拝し、王として迎える事です。そのようなことをすると困る人がいるのです。私はまだ神を信じるほど弱くない。自分は幸せで、困った事はないから、神を必要としない。ある人は、自分の人生は、好きなように生きるから、神に支配されると困る。

神が私たちの心の中心(王座)に来ると困るタイプの人々です。 

 第三は、無関心な人です。4~6節に出てくる律法学者です。彼らは聖書の事をよく知っていました。メシアがどこに生まれるのかと尋ねたらすぐに、ユダヤベツレヘムですと答えました。

それは旧約聖書のミカ書5章1節に書かれています。その箇所をすぐに開く事が出来たのです。本当によく聖書を知っていました。しかし、律法学者はベツレヘムに出かけてゆこうとしない。礼拝をする事を考えていない。クリスマスについて知識はあっても、礼拝するために教会にやって来ることが大切です。

 第四は、礼拝を献げた学者たちです。彼らは、イエスに献げ物を献げました。

 

②東から来た学者たちは誰か

東から来た学者たちは信仰者ではないようです。彼らのことをマゴスと呼びます。このマゴスの複数形がマギです。マギは古代ペルシャの僧族、いわゆる異教徒で、星占いをしていた人々です。

英語の辞書では、マギのあとにはマジック、魔法や魔術と言う言葉があります。聖書で禁止している占いをしていたのです。しかし神は、その占いを用いて学者たちを神の元に導かれました。

旧約聖書民数記に、バラムという預言者が、占いをしたところ、神様の素晴らしい事を語ったという話しがあります。神はどんな占いよりも超えた御方なのです。

占いをする学者達は、イエスに出会って、いままでの占いを捨てたという理解があります。彼らがイエスに献げた贈り物は、黄金、乳香、没薬です。ある説によりますと、これらは彼らの商売道具で、占いに使っていたといわれます。たとえば、没薬を入れたインクに筆に付けて、それでおまじないの文字を書いてあぶり出しのようにする。そして占いを告げてあげていたのです。学者たちにとって、これがないと生きてゆけないという大事な商売道具でした。しかしそれらを全部捨てた、言葉を換えると、イエスの許に差し出したのです。だから彼らはもう占いをしない。献げ物は、そのような信仰の告白でもありました。

もう一つの東の学者たちの可能性は、バビロンに連れて行かれたユダヤ人の末裔だという説であります。彼らの何代か前の親は、ユダヤからバビロンに捕らえられてきた人々です。(あるいは北イスラエルからアッシリアに捕らえられた人かもしれません。)バビロンが滅びた後、祖国に帰った人々もいますが、留まった人々もいます。彼らは、ユダヤの伝統を守りつつ、次の支配国の中で生きていったのです。おそらく、留まった人々は、少しずつ純粋なユダヤ教信仰から離れていったと思われます。いわゆる混交宗教です。伝統的なユダヤ教の信仰と星占いが混ざり合っていたのでしょう。神は彼らのユダヤ教の背景を用いて、真の救い主に導かれたのであります。

神は、私たちの背景にあることもよくご存じで、それら全てを御手に握って、私たちを救いに導かれるのです。

 

③三つの献げ物

 学者たちが献げた宝物は、黄金、乳香、没薬でした。

これら三つはキリストを表すものです。

 黄金は、王様の冠です。イエス様が私達にとって王である御方と言う事です

 乳香(にゅうこう)とは樹木から分泌される樹脂です。それが白く固まって石つぶのようになります。乳香の名は、その乳白色の色に由来します。この樹脂の塊を焚いて香とし、あるいは、香水などに使用する香料の原料として利用されました。

乳香は、祭司の務めに必要です。神に献げ物をする時に、乳香を加えるのです。乳香の立ち上る香りは、祈りのシンボルでもあります。お生まれになったイエスは私たちの大祭司、私たちのために祈ってくださるおかたであることを覚えたいのです。

もう一つ、乳香には癒やしの効果があります。いわゆるアロマ・セラピーです。これはイエスが、私たちをいやし主であることを象徴しています。

没薬は木の樹液から取っております。よい香りのする樹液で、寝室で使用したり、衣服につけたり、ユダヤ教の儀式で使用します。また贈り物として使われました。痛みを緩和する麻酔の効果もあったようです。

没薬は、イエスの十字架を表します。イエスキリストが、十字架にかかり、死んで葬られる時に、体に防腐剤として、また、香料として塗られたのです。

 彼らは神であるイエス・キリストに心を開き、尊い献げ物を献げたのです。

では私たちが献げる献げ物は何でしょうか?

聖歌141番「たえにくしきあかぼしよ」があります。

その歌の3節で、「我ら何を主に献ぐべきか?」問いかけます。そして、同じような宝物を献げるのかと自問します。4節で答えを歌います。主が受け入れて下さる献げ物は、「よき心の歌なり、罪くゆる祈りなり」と歌います。

 ヘブライ13:15では、賛美のいけにえを絶えず神様にささげようではないかと言う勧めがあります。私たちが主に献げるべき第一の献げ物であります。

 第二のものは、罪を悔いあらためる祈りです。ダビデは、罪を悔い改める詩編(51編)を書きました。そこで、神が受け入れて下さるのは、犠牲ではなく、砕かれた心だと歌うのです。