2022年2月6日の説教要約(オンライン) 「無から有を生み出す神」

2022年2月6日の説教要約(オンライン)

      「無から有を生み出す神」  中道善次牧師

                                                           ≪創世記1章1節≫

 

今日のヘブライ語は、バーラーとアサーです。両方とも「造る」という意味でございますが、創世記1章で、神が天と地を作られたときには、注意深い言葉遣いの違いがあります。

創世記1:1で「始めに神は天と地を創造された」では、バーラーというヘブライ語が使われており、日本語は「創造された」となっています。

創世記1:7で、「神は大空を造り」では、アサーというヘブライ語が使われており、日本語は「造り」となっています。

 

1、「創造された」と「造った」

バーラーには二つの意味があります。

a.完全な労力の欠如:たやすく、楽々と行う。言葉や意思によって造る。

b.無から有の創造であります。どこにおいても決して素材と結びついていない「造る」です。

これに対してアサーは、ある素材、材料を用いて造るのであります。

そこには、良い素材から良いものが造り出されることがあります。同時に、人間や被造物が、神が与えてくださった良い素材を間違って用いることで、悪いものを造り出すことがあります。

聖書協会共同聖書では、この二つの言葉を厳密に区別して訳しているのです。

ヘブライ語の「バーラー」を、「創造された」と訳します。創世記1章では三つの節に出てきます。

創 1:1 初めに神は天と地を創造された

創 1:21 神は大きな海の怪獣を創造された。水に群がりうごめくあらゆる生き物をそれぞれの種類に従って、また翼のあるあらゆる鳥をそれぞれの種類に従って創造された。

創 1:27 神は人を自分のかたちに創造された。神のかたちにこれを創造し、男と女とに創造された

1章27節では、バーラーが三回使われています。

ヘブライ語のアサーは、創世記1章に5カ所出てきます。そのうちの三カ所を紹介します。

創 1:7  神は大空を造り

創 1:16 神は二つの大きな光るものを造られた。昼を治める大きな光るものと、夜を治める小さな光るものである。また星を造られた。

創 1:25 神は地の獣をそれぞれの種類に従って、家畜をそれぞれの種類に従って、地に這うあらゆるものをそれぞれの種類に従って造られた。

ここを見ると、興味深いことが分かります。

神は、天を創造された「天」という素材を用いて、大空を造られたのです。

神は、創造された「光」を素材として、太陽や月や星を造られたのです。

神は、海の魚、空の鳥を創造されました。しかし続いて生み出された地の獣や這うものは「造られた」のであります。

少し脱線するかもしれませんが、この言葉遣いの違いは、進化論に対する、聖書自身の弁明であると思います。神は無から有を創造されると同時に、素材を用いて、造られたのです。

進化論では、バーラーとアサーを聖書が使い分けていることを知らないのではと思います。

魚や鳥という素材から、這うもの、獣、家畜が造られたのです。

そして一番大切な箇所が、人間の創造であります。

人間は、サルから進化したのではありません。そのことを強調するかのように、聖書は人間が造られたときに、無から有の創造である「バーラー」を三回も使っているのです。

人間は、神の意志で、神の言葉で、何もないところから造り出されたのです。

 

 

2、ダビデの祈り

旧約聖書に出てくる偉大な王ダビデは、天地創造の神の御業をよく知っていました。

彼は神に喜ばれる、御心に適った王でした。しかし彼が主の御心に適わなかったことが一度あります。それが自分の部下の妻バト・シェバを奪い、夫で、忠実な部下であるウリヤを殺したことです。

彼が罪を犯し、悔い改めたときに祈った祈りがあります。それが詩篇51編です。

詩 51:12 神よ、私のために清い心を造り(バーラー)、私の内に新しく確かな霊を授けてください。

ここの日本語は、「造り」となっていますが、バーラーというヘブライ語が使われているのです。

ダビデは知っていたのです。私の心には、良い素材がないことを。それが7節です。

詩 51:7 私は過ちの内に生まれ、母は罪の内に私を身ごもりました。

私の中には罪という素材しかないのです。だから、無から有を生み出すように、全く新しく造られない限り、私は清くならないのです。自分の心を材料として、それに手を加えて、清くしようとしても無理なのです。新しく私の心を創造してください。そう祈ったのです。

ダビデが祈った祈りを私たちの祈りにしたいと思います。

その延長線上にある新約聖書の言葉が、コリントの信徒への手紙二5章17節であります。

コリ2 5:17 だから、誰でもキリストにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去り、まさに新しいものが生じたのです。

2コリ5:17の「新しく造られた者」というギリシャ語を調べました。ヘブライ語との関連を調べると、バーラーを名詞にした言葉であるのです。

私たちがイエス様を信じてクリスチャンになるということは、無から有が生み出されたように、全く新しい存在になることです。

今日の礼拝で、新聖歌21番の4節を賛美しました。

♪天地造りし神は、人をも造りかえて、正しくきよきたましい、もつ身とならしめたもう♪

天と地とを作り出してくださった神様が、この私をも造りかえてくださったことを賛美しましょう。

 

 

3、良い実を結ぶように造られた

第三ポイントでは、アサーが使われている別の聖書の箇所からメッセージを聞き取りたいのです。

それが詩編1:3であります。

詩 1:3 その人は流れのほとりに植えられた木のよう。時に適って実を結び、葉も枯れることがない。その行い(アサー)はすべて栄える。

詩編1:3の実を結ぶは、アサーではありませんが、エゼキエル17:23では「実を結び」の結びがアサーという言葉が使われています。

ヨハネ15章では、イエス様がぶどうの木であり、私たちはその枝であるというたとえがあります。

そこでは、イエス様につながる者が実を結ぶとあります。

ヨハ 15:4 私につながっていなさい。私もあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことが出来ないように、あなたがたも、私につながっていなければ、実を結ぶことが出来ない。

エフェソの信徒への手紙を見ると、私たちが結ぶ実は、「良い行い」であることが分かります。

エフェ 2:10 私たちは神の作品であって、神が前もって準備してくださった善い行いのために、キリスト・イエスにあって造られたからです。それは、私たちが善い行いをして歩むためです。

私たちは善い行いをしなければ、救われないのではありません。

エス様の十字架を信じるだけで救われます。

しかし救われたあとは、あたかも、良い木が良い実を結ぶように、善い行いが出来るように造りかえられるのです。

1月30日の説教要約 「聞くに早く、語るに遅く」 

1月30日の説教要約

       「聞くに早く、語るに遅く」   照内幸代牧師

≪私の愛する兄弟たち、よくわきまえていなさい。だれでも、聞くに早く、話すに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい。≫

                 (ヤコブの手紙 1章19節)

 

「聞くのに早い」という言葉を聞いたときの第一印象としては、それは「聞き上手であること」だろうと思うのではないでしょうか。たとえば聖書の中の言葉でいうと、ローマの10:17には、「信仰は聞くことから始まる」という言葉があります。また、詩篇46:10には、「静まって、わたしこそ神であることを知れ」という御言葉があります。しかし一方で、ヤコブが言いたかったことは、それだけには留まらないのだということにもまた気付かされるのです。「聞くに早い」ということ、それはただ聞いて終わらせるのではなく、実際の自分の行動に反映されるべきなのだというのが彼の主張です。

その理由を彼は三つ言及しています。

第一に、22節にあるように、聞くだけで行わないなら、それは自分を欺いていることなのだということです。二つ目に、聞いても行わない人は、空虚でおぼろげであるということを言っています(23-24節)。また三つ目に、ただ聞くだけで行わないことは、信仰心があついのとは違うということを、ヤコブははっきりと言っています(26-27節)。

では主イエス様はどうされたでしょうか。主イエス様も聞いて行う方であったということが福音書に書いてあります。ヨハネ福音書5:30に、こんなイエス様の言葉があります。「わたしは、自分からは何も行うことができません。ただ聞いた通りにさばきます。わたしは自分の意志ではなく、わたしを遣わされた方の御心を求めるからです」。そして、姦淫の女が身元に連れて来られた時もその人を許し、安息日であっても人々をお癒しになられました。主イエス様は神様の御言葉にいつも聞いていたので、神様がまことに求めておられる愛をいつも行っていらっしゃったのです。

私たちが聞いて行う人になる秘訣は、やはりイエス様にならうことしかないということが分かります。イエス様はいつも神様の御心に聞きしたがっていたので、神様の御心を行うことができていました。主イエス様にならい、その姿に似せていただくならば、御言葉を行うことが可能になるのだということです。

ヤコブも25節でこのように言います。御言葉を行う秘訣は、自由をもたらす完全な律法を一心に見つめる人だとあります。そのような人になるならば、聞いて忘れたり、聞くだけで実行しない人にはならないと言っています。自由をもたらす完全な律法とは何でしょうか。罪の鎖から私たちを自由にしてくださったイエス様に他なりません。イエス様を一心に見つめ、そこから離れないでいるならば、私たちはイエス様の似姿をずっと見ているということになり、イエス様の行いをすることができるようになるのです。

2022年1月23日の説経要約 「アーメンと言って信じる」

2022年1月23日の説経要約

           「アーメンと言って信じる」  中道善次牧師

≪アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。≫

                                                     (創世記15章1~6節)

 

今日は、私たちが祈りの終わりに言うアーメンについて学びたいのです。

アーメンは、キリスト教を指す代名詞ともなっております。

ヘブライ語であります。アーメンの元の言葉、それはエムーナというヘブライ語であります。

それが最初に出てくる箇所が、創世記15:6です。アブラハムは、神を信じたというところです。

その箇所のヘブライ語は、ヘ・エミンであります。

それを、ある学者は、「アブラムは、主にアーメンと言った」と訳すのです。

今日は、アーメンと言う言葉を取り上げて学びたいのです。アーメンは「信じます」「その通りです」「真実です」という意味です。旧約聖書だけでなく、新約聖書も取り上げながら学びたいと思います。

 

 

1、アーメンと言ったアブラハム

創世記15:1~5で、子どもが与えられないことで悩んだアブラハムを説得するかのように神は満天の星空をアブラハムに見せるのです。

そのような神様の熱い思い、私を信じてほしいという説得に対してアブラハムが答えるのです。

それが、創 15:6 アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。

信仰の父であるアブラハムのスタートです。ここを読むと、アブラハムの信仰は最初から立派だと感じます。しかし実際のところ、不安と恐れでいっぱいのアブラハムに対して、神様が説得された。そしてようやく信じられるようになった。神の説得に対して、アブラハムは「アーメン」と答えたにすぎないのです。

私の友人の牧師が、創世記から連続講解説教をしておりました。その時、15:6から「アーメンと言った」とメッセージされたことを私は深く心に留めていたのです。

友人は、聖書注解者たちのコメント(信じるとは、アーメンと宣言する、ある言葉にアーメンという)から、アブラムはアーメンと言ったという説教を語ったと言っておりました。

アブラハムが信じた「エミン」は、エムーナというヘブライ語です。エムーナという言葉を調べてゆくと、「支えられる」という意味があるのです。

ヘブライの宝もの」には次のように書かれています。

その中で興味深い訳があります。

出エジプト17:12 「その手は、日の沈むまで、しっかりと(エムーナ)上げられていた。

イザヤ33:6 主はあなたの時を堅く支えられる(エムーナト)。

エムーナを持つ人とは「しっかりと堅く立つ」安定性を持つ人であります。

私は、出エジプト17章で、モーセが二人の真実な友人アロンとフルによって、両手を堅く支えられた姿をイメージしました。

支える人がいて、私たちは堅くされる。それが信じることであります。

神様の真実に支えられて、アーメンと言う言葉が出てくる。それが「信じる」という行為です。

私は、アーメンという言葉を出す祝福を、実際の牧会の体験でも教えていただきました。

ある方のご家族を導いた時のことです。その方は、重い病状で、酸素吸入をしておられました。

私がこの方を訪ね、耳元で、代理の祈りをしますと申し上げ、祈りました。お返事を期待してのことではありませんでした。しかし私が祈り終わったとき、その方はひとこと酸素マスク越しに、声を絞り出すように「アーメン」とおっしゃったのです。

信仰とは「ある言葉にアーメンという」ことだ。まさにそうでした。

神様に堅く支えられて、私たちは信じているのです。

 

 

2、信じることと神の真実

私たちが使っております新共同訳のローマ3:22は、以下のような翻訳です。

ローマ 3:22 すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。

ところが、聖書協会共同訳では、ローマ3:22を次のように訳しています。

神の義は、イエス・キリストの真実によって、信じるものすべてに現されたのです。

イエス・キリストの真実」の別訳として、「イエス・キリストへの信仰」とあります。

新改訳2017は、「すなわち、イエス・キリストを信じることによって、信じるすべての人に与えられる神の義です。」と訳し、別訳として:イエス・キリストの真実によって、となっております。

新約聖書が書かれたギリシャ語は、ピスティスと言う言葉であります。

これは真実とも信仰とも訳すことが出来ます。英語で言うなら、faithとfaithfulnessであります

聖書協会共同訳では、「イエスの真実によって」と訳しました。

言語学の問題というより、私たちが信仰をどのように理解するかが問われるところです。

信じるということを、私たちに主体があると理解するか、それとも、イエスの真実によって支えられ、信じることが出来ると理解するかであります。

私たちは神に真実によって支えられている。神の真実が先にあり、それに答えるように信仰があるのです。

 

 

3、アーメンと言ったパウロ

次にパウロがアーメンと言っている箇所をお読みします。

コリントの信徒への手紙二 1章17~20節(引用省略)。

この箇所はわかりにくく、パウロが独り言を言っているような箇所です。

ここでパウロは、コリントの人々から批判されていたのです。

パウロは、コリントを再び訪問したいと1コリント16:5~6で言っております。

パウロはコリントで滞在し、冬を越すことになるだろう。そのように旅の計画を言っているのです。

ところが、彼はコリント訪問を取りやめたのです。

そのことでパウロは、ころころ計画を変えるいい加減なやつだとコリントの人々から非難をされたのです。

それに対してパウロは弁明しているのです。自分が計画を変更したことは、軽はずみなことだったでしょうかと言うのです(17節)。

そのあとの言葉を簡単にいうなら、パウロは、自分の考えで訪問をとりやめたのではない。神が、NOと言ったのだ。だからそれに対して、私は「ハイそうします」と言ったのだというのです。

パウロの中には、いつも神様のおっしゃることに対して「はい」があったのです。

急な変更と言われて、人から批判されることであっても、神様がそうしなさいといわれたら私はいつでも「はい」と言うのです。神のおっしゃることに「アーメン」と言うのです。

神に対して、アーメンと言って生きるパウロの姿がここに描かれているのです。

そして、それは私たちの祈りでもあるべきです。

主よ、あなたのおっしゃることにいつもアーメンと言って従えるように。

どんなときにも「アーメン」と言って応答したい。生きてゆきたい。従ってゆきたい。

それは、私を堅く支えてくださる方への信頼でもあります。

2022年1月16日の説経要約 「キリストのお陰で」

2022年1月16日の説経要約

      「キリストのお陰で」  中道由子牧師

 

《このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。》

                                           (ローマの信徒への手紙5章1、2節)

 

 1節に「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、」とあります。

「このように」の内容には、3章、4章に書かれています。

3章23節「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、」

神様とのまっすぐな関係が持てない状態は、私たちの内に神の義は失われています。

それは、死を意味します。6章23節「罪が支払う報酬は死です。」

ローマ書1章には人間がどれだけ罪深いか書かれているのです。

私たちの内には、神の栄光を回復し、神様と正しい関係を持てるものがないのです。

ユダヤ人は律法によって義を得ようとしました。

しかし、律法は罪の自覚しか与えることができないというのです。

私たちが知っている律法は、モーセに与えられた十戒です。

この中には、前半は神と人の関係が書かれており、後半は人との関係で、「○○してはならない」という否定形です。

たとえば、「これは秘密なのだけど、絶対人に言わないでね。」と言われると、忠実に守れる人もいるかもしれませんが、内容によっては自分だけが知っていて誰にも話せないことにストレスがたまる。

誰にも言わないで、と言われたことにより余計に誰かに話したくなる、ということが起こるわけです。

「~してはいけない」と言われると、したくなる。そのように、律法にはかえって罪を促す力があるが、人を義と認める力がありません。

私たちは異邦人なので、律法は与えられていません。しかし、神様からあたえられているものがある、それが良心だとパウロは2章で語っています。

良心が責められず、生きていけるかというと、自信をもって自分は大丈夫と言える人はいないでしょう。

罪ある私たちはどんなに善い行いを積んでも義と認められることはありえません。

たとえば、法的に罪を犯した人が裁判にかけられ、刑務所で罪を償い出てきます。

もう罪は償ったといいますが、その罪は本当になくなるでしょうか?

律法はそうならないために、私たちがコースを外れそうになる時に警笛を鳴らしてくれるサイレンの働きをしてくれます。

しかし、それは、外れたというサイレンにしか過ぎません。正しい道へは導いてくれません。ここに、律法の限界があります。

実は律法がある者にも、ない者にも神様が同じように与えた賜物が与えられているのです。4章22節「すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じるものすべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。」

そして、信じる内容です。

24節~26節「ただ、キリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。」

 イエス様の十字架の血によって、私たちは神様から義とされる、また神と平和な関係が回復する道が開かれたのです。

義は無償で受け取るしかないものです。

 そして4章にはそれを受け取る方法が示されています。

アブラハムは神から義と認められた人です。

4章2節「もし、彼が行いによって義とされたのであれば、誇ってもよいが、神の前ではそれはできません。

3節 聖書には何と書いてありますか。『アブラハムは神を信じた。それが、彼の義と認められた』とあります。」

 

 アブラハムも多くの失敗をしてしまった人でした。

実際には神の約束を信じきることができなかったにもかかわらす、それでも彼は、神を信じることによって義と認められたと書かれています。

彼の信仰さえも神が信じられるように、約束を再確認させ、サラを通して約束の子イサクを与えたのです。

5節をご覧ください。

「しかし、不信人なものを義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます。」

つまり私たちができることは、良いことであっても行いによってはとうてい神から義と認めていただけない。

 しかし、神は主イエス・キリストの十字架を通して、私たちを義と認めてくださったのです。この事実を「信じます!」という信仰の告白だけが私たちに求められていることです。

 さらに4章24節、25節には、十字架だけではない、イエス・キリストの復活を信じる者は義とされる内容が書かれています。

復活は、私たちが義とされたしるし、確証を与えてくれるのです。

 最後に、5章2節に新共同訳では「このキリストのお陰で」と書かれていることに注目したい。

エス様の十字架のお陰で罪赦され、イエス様の復活のお陰で私たちは死に対して恐れることなく復活の希望をもって生きることができるのです。

2022年1月9日の説経要約 「あなたのために行きなさい」

2022年1月9日の説経要約

    「あなたのために行きなさい」   中道善次牧師

 

≪主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷 父の家を離れて 私が示す地に行きなさい」≫

                              (創世記12章1~3節)

 

今年から、私が説教をする時にはヘブライ語を一つ取り上げるようにしております。それは「ヘブライの宝物」という書物に出会ったことがきっかけです。

その本を読みながら、一つの言葉が目に入ってきました。それはレーフ・レッハ、あるいは、レフ・レハーであります。

この言葉に出会うのは、はじめでではないのです。

以前にヘブライ文学博士が書いた創世記の書物を学んだときにも、この言葉に出会いました。

ヘブライ語の原文では、「私の示す地へ歩け(レーフ・レッハ)」となっているのです。

その先生は、レーフ、「歩け」の方に強調点を置いて3通りの訳を紹介しておられました

Walk by yourself   あなた自身で歩きなさい

Walk to yourself   あなた自身に向かって歩きなさい

Walk for yourself   あなた自身のために歩きなさい。

今回読んだ「ヘブライの宝もの」は、レーフ・レッハを「あなたのために」と訳しております。

「レッハ」というヘブライ語を「あなたのため」と理解するのです。それが強く心に響いたのです。

創世記12:1は、神の命令であります。しかしその命令は、「神のために何かをしなさい」ではなく、あなたのために歩きなさい、なのです。それは命令を受けた人に利益を及ぼすものであります。

この一年、どのようなことが待っているか分かりません。しかし私たちはそれぞれ、人生という歩みをいたします。神様に従って生きてゆきます。その時に心に刻んでほしい言葉は、レーフ・レッハ、あなたの為に行きなさいという聖書の言葉であります。

 

1、あなたの良き将来の為に

ここに登場するアブラハムは、既に75歳でありました。5節を見ると「蓄えた財産をすべて携え、ハランで加わった人々と共に」出かけたとあります。

それがどのぐらいのものであったか、一つの想像ができます。創世記14:14にある「彼の家で生まれた奴隷で、訓練を受けた者318人」という言葉であります。

アブラハムは地方豪族と言われるような立場でした。今で言うなら従業員300名以上抱える牧畜業の会社の社長であったのです。

それなのに行く先を知らないで財産である家畜をつれて、働いている人々とその家族を連れて移住を決断した。

ヘブライ11:8には次のようにあります。「信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです。」

いくら何でも無謀です。会社の取締役会があるならば、社長以外みんな反対すると思います。

これまで私は「信仰の冒険」という言葉や「服従」という視点からこの箇所を理解しておりました。

しかしレッハという言葉を理解して始めて分かったのです。これは無謀な行為ではなかったのです。

アブラハムが、神様が語った言葉を正しく受け止めていたからこそ、出来た服従でありました。

それがレーフ・レッハ「あなたのために行きなさい」だったのです。

 ここから分かることは、神が「レッハ」という言葉を語られたことから、アブラハムの為に良き将来を望んでおられたことが分かるのです。

 無謀なことでも、危険なことでもない。あなたの将来の為だ。祝福の為だ。

 行き先が分からなくても、「あなたのためです」という言葉だけで、約束だけで十分だったのです。

 神様がこの一年を始めるに当たって、どのような具体的な道が示されるかは分からなくても、「あなたの為に行きなさい」。あなたを祝福します。それに聞き従いたいと思います。

 この言葉と共鳴するように、神がエレミヤを通して語られた言葉が響いてきます。

 エレミヤ29:11 「わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。」

 

 

2、神のおっしゃることに間違いはない

もう一カ所、レーフ・レッハという言葉を神はアブラハムに語っておられるのです。

それは意外な箇所であります。創世記22章です。アブラハムがイサクを献げる箇所です。

創世記22:2 神は命じられた。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。」

行きなさいと訳されている箇所が、レーフ・レッハなのです。

後半を直訳すれば、「あなたのために行きなさい。モリヤの地へ。」

ここを理解する聖書解釈がいくつもあります。

a.当時の異教の習慣を断ち切る為にあえて命令を出した。

b.初子は神のものであるから、初子を献げる為の命令である。

c.ヨブ記と同じことが天で起こっていた。アブラハムの信仰が悪魔から訴えられたので、アブラハムが神を第一とするかどうかがテストされた。

d.そして何よりも、独り子を献げるという神の痛みをアブラハムが理解する為である。それは神の独り子イエスの十字架を指し示している。

主な解釈を紹介しました。しかしそれらのことは、この出来事が終わってから、後の世の人々が、この出来事に対する解釈を施したことであります。

しかし当事者であるアブラハムは、いろいろと考える時間はなかったのです。アブラハムは翌朝従ったのです。旅の準備がありますから、ほとんど悩んでいる時間などなかったと思います。

ではどうしてアブラハムが従うことが出来たのか。

それは、レーフ・レッハ、あなたのために行きなさい。かつて神様が自分に語られたのと同じ言葉がかけられたからです。

そこに行く目的は、イサクを献げることであります。しかし神様がアブラハムに告げた言葉は、レッハ、それはあなたの為なのだ。

アブラハムはかつて「あなたのために行きなさい」といわれて約束の地に来ました。

その通り祝福されました。その経験があるから、今回も、これはわたしのためなのだと受け止めたのです。

あなたの為に行きなさいというアブラハムへの二度目に言葉を、私たちが受け止めるならば、それは十字架を負って歩むことであります。

エス様は、従ってくる弟子たちに次のように言われました。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(マタイ16:24)

私は長いこと、この言葉を受け入れたくないと思っていました。

しかしイエス様にとって、十字架はただ苦しいだけではない。イエス様にとって十字架は使命だったのです。全ての人々を罪から救う為に、どうしても成し遂げなければならない使命だったのです。

その使命を果たす為には、苦しいこともあります。重荷を背負うこともあります。

十字架を負うことが使命なら、私も十字架を負って歩める。イエス様が私に与えてくれた使命のために歩むことが出来ると思いました。

少し飛躍する理解になるかもしれませんが、アブラハムはイサクを献げる時に、心の中で、次のように問いかけていたのではないかと思います。

神様、この命令「あなたの為に行きなさい」は、将来の十字架を私に教える為ですね。だからこれは、私の為なのですね。

私たちは、神様何故ですか?そのように問うことがあります。

しかしそれは、ここには何の目的があるのですか?そう問うべきであります。

そして行き着く目的は、これは私の為ですね。そのように受け止めることが「レーフ-・レッハ」という言葉から聞き取ることが出来るのです。

2022年1月2日の説経要約 「初心に帰る恵み」

2022年1月2日の説経要約

                 「初心に帰る恵み」 中道由子牧師

 

《終わりに、きょうだいたち、喜びなさい。初心に帰りなさい。励まし合いなさい。思いを一つにし、平和に過ごしなさい。》

(コリントの信徒への手紙二13章11節)  

 

今年鵠沼教会に与えられたみ言葉から、私たちの信仰の基本的な在り方、特に礼拝することを中心に学び、この1年を通して主にお従いしたいと願っております。

 

1、   喜びの意味

 「終わりに、きょうだいたち、喜びなさい。」ここは、「では、兄弟たちよ、ごきげんよう。」と手紙を閉じる挨拶にもなる言葉です。

「バイバイ」という代わりに「喜びなさい。」というのです。

私たちの毎日には喜んでばかりはいられないことが転がっています。

そんな時「喜びなさい。」と簡単に言えるでしょうか?

パウロはフィリピの信徒への手紙4章10節で「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。」と勧めています。調子が悪いから愚痴を言い、物事がうまくいっている時だけ喜ぶのではなく、いつも喜ぶのです。

そこには喜びの質が求められていく、ここでパウロは命をかけて愛し、赦してくださるお方に出会ってから、彼は何があっても奪われない喜びを心の深いところで持ち続けることができました。

人から誤解され、否定され、貧しくなり、牢獄に入れられても彼は、喜びました。

エス様が彼を愛してくれているからです。

皆さんは、IQというのをご存じだと思います。Intelligence Quotinent知能指数です。

IQの高い者、偏差値の高い者が優れているかのように一般的に思われています。

一方、IQとは別にEQという基準があるそうです。Emotional Quotinent「感情、情緒」を測る指数です。

実は、IQよりもEQの方が、人が成功するかどうかをもっとよく判断できるというのです。

パウロの不思議なEQ感情、情緒指数の元は救いの喜びでした。

パウロはコリントの教会がパウロを誤解して、彼から離れて行った時にも、祈りと忍耐とをもって彼らに接し、きっとわかってくれると確信をもっていました。

彼がそのような中でもキリストの十字架を語り続けることができたのは、イエスキリストを知った喜びを誰も奪い取るものがないからです。

高いEQ情緒指数を持つお互いでありたいと思います。

 

2、   完全の意味

これは、「完全無欠の人となれ」と言っているのではありません。

原意は、「元の形に戻す」という意味なのです。

協会共同訳では、「初心に帰りなさい。」です。

神を離れていたものが神との和解を与えられ、再び神との正しい関係を回復されるという意味です。

ヘブライ人10章25節「ある人たちの習慣に倣って集会を怠ったりせず、むしろ励まし合いましょう。」と書いてあります。

 このヘブライ人への手紙の頃、クリスチャンになった故に試練を受けることが多かったようです。職を追われたり、財産を奪われたりしたのです。

あまりにも理不尽なことが多く、つらくて信仰から離れてしまった人たちがいました。

しかし、このヘブライ人の手紙を書いた人は、初めの愛に立ち返ってほしいとこの手紙を書いています。

私たちは、コロナ禍の中で制限はありますが、これほどの困難ではないと思います。

そして、私たちはまず、主を礼拝する民の集まりであることを覚えたいと思います。

教会は何よりも主を礼拝する民の集まりです。

今日ここで誰か人と会うことを目的として来た人はいないと思います。

誰かと会うとしたら、それは神様と会う場所なのです。

皆それぞれの心境の中、神に会いにここに来ます。

神を求めて、礼拝の中で、賛美の中で、説教の中で、聖礼典の中で私たちは神に会い、変えられてまいります。

そういう意味において、新年に当たって私たちは「初心に帰らせて」いただき、まず主を礼拝することを大切にする一年としたいと願っています。

 

3、   一つ心となる

「初心に帰る」の次は「励まし合う」ことです。

それが「一つ心になること」に続いていきます。

私たちは一人では弱い者です。兄弟姉妹の励ましが必要です。

コリント二8章では、コリントの人たちはエルサレムの教会のために献金をしたことが、書かれています。

エルサレムの教会は財政的に苦しんでいました。

キリスト者になると家や職場を失うことにもなったのです。その上、その地に飢饉まで襲いました。パウロは、周りの諸教会はエルサレムの教会を支援すべきだと考えていたようです。

その理由の一つは、彼らがエルサレムの教会に福音の負債を負っていたからです。

エルサレムの教会を助ける献金は、単に救済のためだけではなく、キリスト者を一つに結び付ける良い機会となりました。

困難や試練、マイナスだと思えることにより皆が一つになることができます。

2021年12月26日の説経要約 「試練か誘惑か」

2021年12月26日の説経要約

                          「試練か誘惑か」   照内幸代牧師

 

「良い贈り物、完全な賜物はみな、上から、光の源である御父から来るのです。御父には、移り変わりも、天体の動きにつれて生ずる陰もありません。」

                                 ≪ヤコブの手紙 1章17節≫

 

読み始めて早々に、私たちはちょっと信じられないような御言葉に出会います。2節「私の兄弟たち、様々な試練に遭うときはいつでも、この上もない喜びと思いなさい」とあることです。ヤコブは文字通り、試練に遭ってるときにそれを喜びなさいということを言いたいのではなく、試練というのは一つのチャンスのような者であって、それを耐え偲ぶなら自分自身に成長があるということを言いたいのではないでしょうか。アブラハムという人を例にあげたいと思います。アブラハムは神にお従いする神の友で、たくさんの財産を持っていましたが跡取りとなる人がいませんでした。神様は、「さあ、天を見上げなさい。星を数えられるなら数えなさい。あなたの子孫はこのようになる」と約束されました。ところが、そのような約束をくださった神様は、それから何年経っても子どもをお与えになりません。与えられたのはなんとアブラハムが99歳のときでした。神様の約束から24年もの時間が流れています。この24年の間に、家族関係に大きな困難がありました。でも神様は沈黙していらっしゃる。約束の子はまだ与えられない。そんななんとももどかしい時間の経過が流れています。私たち自身のことについて考えてみても、同じような経験はあるのではないでしょうか。与えられたいと願ったものが、願った時に与えられなかった。神様の不思議な沈黙とも言える時間です。主からの試練は、このような不思議な時間に似ています。一つ言えるのは、その時間を通して、私たちは確かに祈り、悩み、話し合い、最善を尽くそうと努力したということではないでしょうか。主の試練とは、私たちが祈るため、また愛をもって仕え合うための時間の流れです。

ですからヤコブがここで強調して言っていることは、試練と誘惑は違うということです。誘惑と言ってまっさきに思いうかべるのは、創世記に出て来るアダムとエバではないでしょうか。天の父なる神様はエデンの園を造られ、その中央に食べてはならない善悪を知る木を植えられました。このことは一つ、神様からのチャレンジ、すなわち試練であったと思います。神様はその善悪を知る木と命の木を園の中央に飢えられたとき、そこに高いフェンスを設けなかったからです。この試練の意味することは、神様の信頼です。食べてはならないと言ってある実が人によって食べられない間、神様と人間の間には信頼関係があったのです。ところがそこに、神様と人間との関係を打ち壊そうとする悪がやってきます。蛇の誘惑です。エバも、そして夫のアダムも園の木の実を食べてしまいます。このとき確かに神と人との間には大きな断絶が生まれたのです。神様からの試練というのは、私たちに対する信頼の結果であり、決して私たちを傷付けたり、損なわせたり、何かを失わせる目的のものではないのです。しかしサタンからの誘惑は、私たちと神様の関係を壊し、私たちに損害を与えるものであることが分かります。

ですからヤコブは、全て良いものは神から来るのであり、悪いものは神から来ないと言っています。その何よりもの証拠が、主イエス・キリストが私たちのために十字架にかけられ、蘇ってくださったことではないでしょうか。パウロもローマ書8:32でこのように書いています。「私たちすべてのために、ご自分の御子さえも惜しむことなく死に渡された神が、どうして、御子とともにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか。」天の父なる神様は、私たちに御子をくださったお方です。今から二千年ちょっと前に、主イエス様をこの地上に人間として生まれさせて下さったお方です。そのお方が、私たちにとって悪いものをくださるはずはないのです。