礼拝・「関係の破壊と回復」

「主はカインに言われた。「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。
もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。」   
     (創世記4:6)
「だから、神に服従し、悪魔に反抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げて行きます。」           (ヤコブの手紙4:7)

創世記始めの創造の業の美しさより一転、罪を犯す人間の姿が赤裸々に記されています。
神に背いた時、アダムとエバの関係もまた不真実なものとなりました。
その長男カインと次男アベルの物語はいきなり殺人の物語です。


人間関係のトラブルは、自分について他者について特別な関心が生じる親しく近い関係において起こります。
二人の兄弟は育ち、兄カインは土を耕す者、弟アベルは羊を飼うものになりました。
兄カインは、神に土の実りを献げ、弟アベルは羊の群れの中より肥えた初子を献げました。


アベルと献物は神に目を留められ、カインと献物は目を留められませんでした。
激しく怒り、顔を伏せるカインに神は上記の言葉で神は語りかけられます。
顔を上げて神の御心を知るようにとの呼びかけでした。神に帰るか、戸口で待つ罪に向かうか道は分かれていました。
神にも人にも顔を上げられないカインは、心の思いを行動に移します。アベルに声をかけ、野に連れ出し、襲って殺しました。
隠れた出来事のはずでした。


神は「アベルはどこにいるのか」と呼びかけられました。自分と自分のしたことを表し、神に帰る機会が与えられました。
しかし、カインは「知りません・・・」と自分と自分のしたことを隠そうとします。
神は「なんということをしたのか。弟の血が土の中からわたしに向かって叫んでいる・・お前は呪われるものとなった」と告げられました。
自分の罪の重さにおののくカインに神はいのちを守るしるしをつけられました。
カインは神の前を去り、さすらいの地に住むものとなります。


アベルは、「息、蒸気、空しさ」を表す言葉より名づけられており、その生涯ははかなく不条理なものに思えます。
しかし、ヘブライ人の手紙には、アベルの死についてこのように書かれています。
「 信仰によって、アベルはカインより優れたいけにえを神に献げ、その信仰によって、正しい者であると証明されました。神が彼の献げ物を認められたからです。アベルは死にましたが、信仰によってまだ語っています。」(11:4)
エノクやアブラハムなどと並んで記され、約束を見ずに死んだが、信仰によってはるかに見て喜び、この地上では仮住まいであることを公に言い現わした。とあります。(11:14)


主イエスは、聖書・律法の専門家たちとの論争で、このように語られました。
「『わたしは預言者使徒たちを遣わすが、人々はその中のある者を殺し、ある者を迫害する。』
こうして、天地創造の時から流されたすべての預言者の血について、今の時代の者たちが責任を問われることになる。
それは、アベルの血から、祭壇と聖所の間で殺されたゼカルヤの血にまで及ぶ。そうだ。言っておくが、今の時代の者たちはその責任を問われる。」
ルカによる福音書11:49〜51)

神のためにと言いながら、神の言葉を語る者を自分の都合のために排斥する罪の責任が問われる。
自分が受け入れないだけでなく、受け入れようとする人々をも妨げてきたのは不幸である。
これらの言葉に専門家たちは主イエスに激しい敵意を抱きました。


アベルをはじめ、訴えを封じられた人々、報われなかった人々はそのままにされているのではありません。
神が「責任を問う」とは、恐ろしい言葉です。誰がたえ得るでしょうか。
敵意をあらわにする人々に対して、主イエスは嘆かれました。
エルサレムエルサレム預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。
見よ、お前たちの家は見捨てられる。・・・」
(ルカ13:34)
神は背くものを見切ろうとしているのではなく、愛する者が自分のもとに帰ってくることを切望されています。
帰ろうとしない人々、失われている人々のために神は痛みを持ち続けておられます。


失われた人を尋ね出して救うために神は愛するひとり子を遣わされました。
キリストは、自ら背きの責任を身代りに負い、神から捨てられました。
神から最も遠い罪の裁きの場を罪を贖う祭壇とされ、御自分を供え物として献げられました。
どれだけ遠く神からから離れていても、十字架を仰ぐ者に救いの道は開かれます。
十字架の血潮は罪を赦し、捨てられるはずの者を新しい契約に生きる者とするのです。


わたしたちの周囲に起こる出来事について、激しい感情が起こる時、その反応そのものは罪ではありません。
しかし、「罪が戸口で待ち伏せする」とあるように自分の悪い思いを実現しようと行動するときに、誘惑にのまれてしまいます。
罪の支配は、途中で引き返せなくなる力をもっています。
背きの罪を赦されたわたしたちは、心が分かれて争う時、
神に反抗し、悪魔に服従するのではなく、神に服従し、悪魔に反抗する道を選びます。


顔を上げ、共に聖餐に与りましょう。