召天者記念礼拝

9月末に、先に天に召された方を記念する礼拝をいたしました。
礼拝後、写真を見ながら故人の遺された言葉を中心に、おひとりびとりの思い出を語り合いました。
お目にかかったことのない方を含め、先達の憩う天が近くに感じられました。
常に指し示されるゴールに目を留め続けたいと思います。


『主イエスを見つめながら』                 上中栄牧師
《こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら》 (ヘブライ12:1−3)
《囲まれている》というのは、オリンピックのように、競技場で人々が競技者を応援しているイメージにつながると言われます。《証人の群れ》とは、旧約聖書の人々、すなわち先達です。召天者記念礼拝において私たちも、故人を偲ぶと共に、私たちの《競争》を走りぬく力が得られるのです。


さて、聖書には時間を表す言葉が数種類あり、規則正しく流れる時間を「クロノス」、特別な出来事が起きた時間を「カイロス」といいます。例えば自分史を書く場合、出生、受験、就職、結婚といった出来事、つまり「カイロス」をつなぎ合わせます。毎朝みそ汁を食べるというのは、いわば「クロノス」であって自分史に書き留めはしません。しかし、荒れた生活をしていた時、みそ汁で母親を思い出して立ち直ったとすれば、それは「カイロス」となります。
私たちにとって信仰とは、「カイロス」です。普段は気にも留めない生や死、罪について思い巡らし、主イエスが私たちの救い主であることに目が開かれるのです。この「カイロス」を経験した者は、主イエスが再び来られるという「カイロス」もまた確実と信じ、終わりの日を待ち望みます。信仰が旅やマラソンに例えられるのはこのためです。これが教会の終末信仰です。


《囲》んでいるのは見物人ではなく《証人》です。同じ信仰に生きた先達が証ししている生きることの希望を、故人を記念する私たちも知ることができます。最近のカーナビには、目の前の進む道だけでなく、ゴールを常に指し示すものがあります。私たちの人生でも、目の前の道は曲がったりアップダウンがあります。しかし、最終的なゴールに目を留め続ける、それが《イエスを見つめ》るということです。そこから、新たな力が与えられるのです。