2021年3月7日の説教要約 「神の独り子イエス」

2021年3月7日のオンライン説教要約

                   使徒信条 「神の独り子イエス」   中道善次牧師

 

「神は、その独り子をお与えになったほどに、この世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」

             ≪ヨハネによる福音書 3章16節≫

 

 ①神であり人である

使徒信条の中には、当時争われましたイエスについての教理のことが含まれています。

エスが100%神であられ、100%人であられることが使徒信条の告白の中に含まれています。

当時、イエスが神であり、人であることについて異なる教えがありました。それは神人両方100%と言うことはあり得ないと思う人々がいたのです。

一つは、イエスは神であるけれども、真の人ではなかった。幻のような幻影であった。

それに対して聖書は、十字架にかかったイエス様のお体を指したら水と血が出て来た。これはイエスが肉体をお持ちであったことの証拠であります。

エスが人間であることが、「マリアから生まれ」という告白の中に含まれるのであります。

もう一つは、逆の考えです。イエスは人であった。しかし神ではなかった。ただ一時的に神の力を受けて、奇跡を行われたのだ。そしてイエスに宿っていた神の力は、十字架にかかる前に取り去られた。

エスが神であられたことは、変貌山で、お姿が変ったことが何よりも証拠であります。また、十字架の上でも神であられたのです。イエスは、十字架の上でも、救いを与える権威を持っておられたのです。全地が暗くなり、神殿の幕が上から裂けたこと、それが神の御子である証拠であります。「その独り子」という言葉から、イエスが神であることが告白されているのです。

エスが神であるという告白、それを出しているのがトマスであります。トマスは疑い深い性格でした。しかし復活されたイエスが、両手と脇腹を示して、信じない者にならないで、信じるものになりなさいと言われた。その後で「私の主、私の神」と告白しております。

エス様が人となられた。フィリピの信徒への手紙には、神と等しくあることに固執しようとは思わず(2:6)とあります。私が聖書学院1年生の時、お世話になった信徒伝道者の方は、「謙遜の全能」という言葉を使われました。

使徒信条の言葉は、それぞれ繋がっているのです。「我は全能の神を信じる」とあります。その神の全能が一番表されたのが、イエスがマリアから生まれ人間となられたということであります。

 

②神の子でありマリアの子

神の独り子、それはイエス様が父なる神からお生まれになった事であります。私は、イエスは永遠の存在であられるから、最初からおられたのだと思っていたのです。はじめに言があった(ヨハ1:1)という言葉からもそう思っておりました。

ところが聖書は、神の子が生まれたことを「永遠の誕生」と呼びます。

それが書かれている一つが箴言8章です。ここでは「人格を持った知恵」として描かれています。「66巻のキリスト」という書物では、この知恵とは、「はじめに言があった」と言われるお方であると記します。またコリント書やコロサイ書では、「神の知恵であるキリスト」という表現があります。

箴言8:22~27を紹介します。

箴 8:22 主はその道の初めに私を造った いにしえの御業の始まりとして。箴 8:23 とこしえより、私は立てられていた 太初より、地の始まりから。箴 8:24 まだ深淵もないとき 私は生み出されていた 大いなる原初の水の源もまだないときに。箴 8:25 山々もまだ据えられず、丘もないとき 私は生み出されていた。箴 8:26 神が、まだ地も野も この世界の塵の先駆けさえも造っていなかったとき箴 8:27 神が天を確かなものとしたとき 私はそこにいた。神が深淵の上に蒼穹を定めたとき

エスは神の子、また、私たちも神の子です。しかし、私たちは「養子」です。神から生まれたお方は、イエスお一人。私たちは、イエスの贖いによって、神の子どもとならせていただいたのです。

次に「処女マリアから生まれ」について学びたいと思います。

キリスト教を信じることの躓きの一つ、それは処女降誕を信じることであります。

中学や高校で生物学を学ぶと、どのようにして動物が、人間が生まれるか。それは精子卵子が結合することによって生まれるのです。それを私たちは学ぶのです。知恵であり、知識であります。

マリアとヨセフは、そのような学校教育を受けていなかったでしょう。それでも、男性と女性の性の営みがなければ、子どもは生まれないことを彼らは知っていたのです。

それなのに、天使が現れて、マリアに対してもヨセフに対しても、これは聖霊によって宿った子どもだと告げたのです。マリアとヨセフは、人間の知恵を超えた神の知恵を知っていたのです。

それが「我は天地の造り主、全能の父なる神を信じる」という信仰告白です。

最初の人間アダムとエバが生まれたときには、人間の性の営みはなかったのです。神が御手により天地を造り、神が人間の形をした土の塊に命の息を吹き入れ、人を造られたのです。

もう一つ、処女からイエスが生まれることが必要であったのは、罪を持たない姿でイエスが生まれる必要があったからです。

「処女マリアから生まれ」とは、罪のない姿でイエスが誕生された。そのことの告白であります。

聖書は告げます。人は罪を犯して死ぬべき存在となった。もしイエスが、十字架につけられ、死んだままであったなら、罪の結果、死んだことになるのです。しかし、死からよみがえったことにより、このお方は、神であり、罪のないお方であったことが証明されたのです。

私たちが罪から救い出されるために、神の子イエスは処女マリアから生まれてくださったのです。

 

③神はその独り子をお与えになった

「独り子」という言葉ですぐに思い起こす言葉はヨハネ3:16であります。

ヨハネ3:16で述べていることと同じように、使徒信条は、イエス様がお生まれになったらすぐに、ポンテオピラトのもとに苦しみを受け、十字架に付けられと告白するのです。

エス様の御生涯について、その教えや奇跡について、使徒信条では触れないのです。

神の独り子が、処女マリアから生まれた。そして十字架について、死んだ。

今週3月9日の聖書日課で、マタイ21章33節からの「ぶどう園の主人」の譬えを学びます。

私は加藤常昭先生が、その箇所から語られた説教をいつも深く心に留めております。その説教の中で、加藤先生は「お人好しの神」と表現しておられるのです。

「私の息子なら敬ってくれるだろう」(37節)というぶどう園の主人の言葉に対して、加藤先生は次のように言われます。「このぶどう園の主人は、人がよいにもほどがある」。私たちなら、自分の息子なら敬ってくれるなどとは思わない。僕たちがこれまでひどい扱いを受けて来た。それなのに、なお農夫たちを信頼して、息子を送るというのです。

並行記事のマルコ福音書12:6には、「その人には、まだ一人、愛する息子がいた」とあります。

独り子であります。この父は、その独り息子を送ったのです。

それは、神の独り子であるイエスがこの地上に送られてきたことを示唆する譬えであります。

加藤先生は、説教でこう続けられます。「私たちにはそのようなことは出来ない。何故なら私たちは人間関係に傷つき過ぎているからだ」。本当にそうだと思います。

しかし神は、どんなに傷付くことがあっても、裏切られるようなことがあっても、農夫たちの事を信じ切っておられる。この物語は、神の真実は何があっても変わらないと私たちに語っている。

「独り子をマリアから生まれさせた」。そこに、私たちを愛して止まない神の愛があるのです。

 

2021年2月28日の説教要約 「我らの主イエス・キリストを信じる」

2021年2月28日のオンライン礼拝説教要約

 使徒信条 「我らの主イエス・キリストを信じる」  中道善次牧師

 

「シモン・ペトロが、『あなたはメシア、生ける神の子キリストです。』と答えた。」

                ≪マタイによる福音書 16章13~20節≫

 

デボーション雑誌リビングライフ2月号に「他の教派をどう考えるべきですか」という文書が載っておりました。一部紹介します。

「全ての教会が一つの組織の中で画一化されなければならないわけではありません。私たちは『イエスは・キリスト』と『福音の真理』という一致の中で、多様に表現することが出来ます。私たちは、この原則のもとに、毎週告白する使徒信条の意味を深く考えなければなりません。」

使徒信条は、他の団体や教会を認めるために、なくてはならない。使徒信条は、教団や教派の違いを乗り越える大切な共通点であると書かれており、心から同意しました。

 

①イエスの名

エスの名前は、ヘブライ語では、イェホーシュア(その意味は、「主は救い」)であります。

これは、旧約聖書ヨシュアと同じであります。元々ヨシュアは、ホセアという名前でした。ホセアだけですと「救い」という意味ですが、ヨシュアになって、「主は救い」となりました。

エスの頃、アラム語で発音しており、イェシュアと呼んでおりました。

ギリシャ語では、イエスースと発音します。

私たちが「イエス様」とお呼びする。それはユダヤ人が発音するイェシュアの音に近いのです。

マタイ1章21節で、天使はヨセフに、「その子をイエスと名付けなさい。」と命じております。

エスという名は特別な名前ではなく、当時、普通に子どもに付ける名前でありました。

そしてイエス様、名前の通りの人物になられたのです。「イエスと名付けなさい」の言葉の後に、「この子は自分の民を罪から救うからである」と、天使は続けるのです。

私たちにとって、イエスという名前は、すばらしい、何物にも代えることの出来ないお名前です。

それを三つ取り上げてまいります。

エスの名前は、私たちに神の子となる力を与える、言葉を換えると、永遠の命を得るのです。

ヨハ 1:12 言は、自分を受けいれた人、その名を信じる人々には、神の子となる権能を与えた。

ヨハ 20:31 これらのことを書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じて、エスの名によって、命を得るためである。

エスの名前の力の二番目のこととして、イエスの名前には癒やしを与える力があるのです。

使徒 3:16 このエスの名が、その名を冠した信仰のゆえに、あなたがたの見て知っているこの人を強くしました。その名による信仰が、あなたがた一同の前でこの人を完全に癒やしたのです。

第三のことは、イエスの名によって祈ることで祈りが答えられるのです。

ヨハ 14:14 私の名によって願うことは何でも、私がかなえてあげよう。

エスの名は、私たちに救いを与え、癒やしを与え、祈り(願い)に用いる名であります。

 

②あなたこそキリスト

マタイによる福音書16章にはペトロの信仰告白が書かれています。口語訳聖書では、ペトロの告白を「あなたこそキリスト」と表現しております。しかし新共同訳聖書、そして、協会共同訳聖書では、「あなたはメシア」と表現しております。そしてそれが、ユダヤ人であったペトロが言った言葉そのものであります。

キリストという言葉は、ギリシャ語で、クリストスであります。これはヘブライ語の聖書がギリシャ語に訳された(70人訳)時に使われました。もとの言葉ヘブライ語では、メシアです。

メシアとは、油注がれた者という意味であります。

旧約聖書の中で油注がれてなる努めは、祭司、王、預言者でありました。それぞれがその職務に就くときに、油が注がれるのです。

エスは一人で、この三つの働き、王、預言者、祭司の働きをなさるお方であります。

ユダヤ人で、イエスを信じる人々のことを、メシアニック・ジュウと呼びます。旧約聖書の神を信じている彼ら(ユダヤ人)にとっての信仰告白は、ペトロがここでした告白と同じです。「イエスはメシア」

エスは、ペテロの信仰告白を大変喜びました。それで次の段階のことをペトロに伝えました。

それはご自分がエルサレムユダヤ人指導者たちに殺されることです。

ところがそれを聞いたペトロが、イエスを諫めました。そのようなことがあってはなりません、と。

それに対してイエス様が厳しく叱りつけました。「サタン、引き下がれ」と言われました。

その意味は、「出て行け」ではなく、「私の後ろに回りなさい」という意味であります。

ペトロが、イエス様に指示を与えるように、主の前に立って、あの方向ではありません。この方向でもありません。そのように指図をするのではない。イエスの後ろに回りなさい。

それは、イエスの背中をしっかり見て、後から付いてきなさいという意味であります。

エスを「キリスト(メシア)」と告白する私たちもまた、イエスの後ろに回って、喜んでその背中を見つめて歩いて行きたいと思います。

 

③「イエスは主」と告白する

「主」とは、ギリシャ語ではキュリオスと言います。

キュリオス。辞書を調べてみますと、「力と権威を持っているお方」という意味が最初に来ます。

そして、ギリシャ語の辞書を続けてみてゆくと、様々な説明が書かれています。キュリオスとはタイトル(称号)である。所有者である、主人である。偶像の神にも使うようです。そして、王や皇帝にも使います。

小林和夫師のコリント第一の手紙の説教では、12章3節のところで以下のような解説がなされていました。

「キュリオスというのは当時のローマ皇帝にしか使われませんでした『キュリオス・カイザー』というのが、ローマ皇帝を神として礼拝するように命じられて人々が言った言葉です。このようにキュリオス(主)という言葉は、ローマ皇帝カイザル以外には誰にも付けてはいけなかったのです。にもかかわらずクリスチャンたちは、私たちのキュリオスはカイザルではない。イエスだ。そのように告白したのです。」

70人訳聖書は、離散していたユダヤ人のためにヘブライ語の聖書をギリシャ語に訳して書かれた旧約聖書です。70人訳聖書では、旧約聖書の神ヤハウエ(YHWH)をキュリオスと訳したのです。

「イエスは主」と告白した初代教会の人々は、旧約聖書を読んでおりました。この時代まだ新約聖書は完成しておりませんでした。

旧約聖書では「主」という言葉は、いつも神にだけに使われたのです。

初代の信仰者にとって、「主」(キュリオス)は、旧約聖書のヤハウエ(YHWH)のでありました。

もう一つ、旧約の言葉で主を表す言葉に「アドナイ」があります。それは、わが主(支配者、権威者)を表す言葉です。旧約の人々は、ヤハウエとある箇所を、神の名前をみだりに唱えないということで、代わりに「アドナイ」と読んだのです。アドナイもまたキュリオスと訳されたのです。

アドナイである主とは、私の仕えるご主人様、私の支配者です、という意味であります。

主こそ、私の喜びであり、私の仕えるお方であり、私の全ての全てでありますという告白であります。「主よ」。私たちがそのように、イエスを呼ぶとき、私たちの中にある自己中心、神を自分のために利用する心、それらもまた、後ろに退くのであります。

初代教会の賛美、フィリピの信徒への手紙2章6~11節の最後の言葉を、私たちの賛美、そして信仰告白としたいと思います。

フィ 2:11 全ての舌が「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神が崇められるためです。

2021年2月21日の説教要約 「全能の父なる神を信じる」

2021年2月21日のオンライン礼拝説教要約

 

          使徒信条 「全能の父なる神を信じる」  中道善次牧師

 

≪ルカ 1:37 神にできないことは何一つない。≫

≪ローマ 8:15 あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、子としてくださる霊を受けたのです。この霊によって私たちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。≫

 

 

かつて歌っていた短い歌があります。歌詞だけ紹介します。

♪ 何でも出来る 私の神様 何でも出来る 世界の造り主 神様は 何でも出来る♪

単純な歌詞ですが、この歌には、力があります。それはこの歌が信仰告白に他ならないからです。

使徒信条は、文語体です。唱える形式です。しかし、「私の神様は何でも出来る」と口ずさむ時、歌詞が歌っている自分に返って来るのです。そして確信が深まるのです。

 

①私は奇跡を信じます

「我は全能の父なる神を信じる」とあります。聖書検索で「全能」という言葉を調べてみました。口語訳の聖書検索ですが、65回出て来ました。

その中で有名な言葉を二つ紹介したいのです。

創 17:1 アブラムが九十九歳の時、主はアブラムに現れて言われた。「私は全能の神である。私の前に歩み、全き者でありさない。

ここでの全能の神は、エル・シャッダイというヘブライ語であります。

黙 19:6 また私は、大群衆の声、大水のとどろき、激しい雷のようなものが、こういうのを聞いた。「ハレルヤ 全能者である神、主が王となられた。

ハレルヤ・コーラスのもととなった歌詞の一つです。ハレルヤ・コーラスでは♪全能の主、治めたまわん♪と何度も歌います。

「全能の神」。それは力ある言葉です。それを身近な表現としたのが「何でも出来る神様」であります。

そのことを表現しているのが、ルカ福音書1章37節の「神にできないことは何一つない」です。

これと似た言葉をイエス様もおっしゃっています。

マコ 10:27 イエスは彼らを見つめて言われた。「人にはできないが、神にはできる。神には何でもできるからだ。」

私の信じる神様は、何でも出来る。このことを、さらに別の表現で言うなら、私の信じる神様は奇跡を行うことが出来る。私は奇跡を行う神様を信じますという告白であります。

茅ヶ崎教会では、二度目の緊急事態宣言の中、ZOOMをつかって日曜学校を行っています。

先週は、教会学校の教師のお一人がメッセージを語ってくださいました。その方はメッセージで語られたのは、私は神様を信じてきた人生の中で、何度も奇跡を経験してきた。火事で自分が住んでいた家が焼けそうになった時、火の手が家の前でおさまり、守られた。それは子ども時代のことです。そこからはじまって、人生の危機と思えるような時、何度も神様が現れて奇跡を行ってくださった。そのようなメッセージを語られました。

しかし「奇跡」という言葉は、何か不思議なことが起こったと言う狭い意味ではありません。私たちがイエス様を信じて救われるということそのものが奇跡であります。

アメリカの日系人教会で学生牧師をしていたとき、イエス様を信じて救われた人がおられます。

その方は、幼い頃から死ぬことが怖かった。死んだらどうなるのだろう。死んだらどこにゆくのだろう。誰も教えてくれなかった。ずっと悩んできて、大人になっても、死の恐れはなくならなかった。結婚しても、子どもが生まれても、その恐れはなくならなかった。

でもイエス様を信じてから、長年捕らわれてきた死の恐れから解放された。そのように語られたのです。そして、次のようにおっしゃったのです。私は奇跡を信じます。私にとって、何十年も払拭されなかった死の恐れ。誰も取り除いてくれなかった恐れ。イエス様を信じて、私にはその死の恐れがなくなったのです。私にとって、こんなに大きな奇跡はありません。

全能の神様は、私たちの人生に奇跡を行ってくださるのです。私たちの心に触れるような奇跡を行ってくださるのです。長年引きずってきた恐れや心の傷さえも癒やし、解放してくださるのです。

 

②全能の神は祈りを聞かれます

使徒信条は、全能の神が、私たちの父であるというのです。

神様が私たちの父である。そのことを示している言葉がローマ8:15であります。神様を信じて、神様の子どもとされたら、神を「アッバ、父よ」と呼ぶことが出来る。

「アッバ」、それは赤ちゃんの言葉であります。ユダヤの幼い子どもが最初に親を呼ぶ時の言葉です。

それは、幼い子どもが「信頼を込めて親を呼ぶ」ことであります。助けを求めることであります。

「アッバ、父よ」と呼ぶ。それはただ形式的に「天のお父様」と呼びかけることではありません。

英語の聖書では、「呼ぶ」というところを「cry」(叫ぶ)という言葉が使われていました。

ある先生が、韓国の教会に行かれたときのことをお話しされました。韓国の教会では、祈りが盛んです。朝の祈祷会があり、金曜日の夜には徹夜祈祷会があります。

そして恵みの座という講壇の前の場所があり、そこに出て、神に近づいて祈る時があります。

その先生のすぐ近くで、韓国人の若者が涙を流して、韓国語で「父」を表す言葉、アボジーを、大きな声で叫んでいたのです。

ああ、何か心に重いものがあるのだろう。それをアボジーと叫んで、訴えている。それこそが、「アッバ父よ」と呼ぶことが出来る、神様助けて、お父さん助けて、そのように叫ぶことが出来る祝福であります。

もう一つのこと。神を父と呼ぶことが出来るとは、父なる神に祈ることを意味しております。

私が、尊敬しております説教者は、説教集の中でしばしば、次のように述べています。

「神を信じるとは、祈りを信じることに他ならない。」

私たちが生きておられる神様を信じる。それが何よりはっきり分かることは、祈りが聞かれることです。私の信じる神は、私の祈りを聞いて下さり、私の叫びを受け止めてくださるお方であります。

「私の祈った祈りが聞かれる」という経験をもつことが、私たちの信仰でとても大切であります。

最近のこととして、私たちの教会学校に新しいお子さんが来られました。神様によって導かれてきたとはっきり言えます。このことは、私たちにとって、すばらしい祈りの答えであります。

私たちの祈っている祈りが、いつ、どのようなかたちで聞かれるか分からないのです。自分の予想していない時に、その答えが来ることがあるのです。しかし祈っている者は、これは祈りの答えだと分かるのです。そして神様が、自分たちの祈りに答えてくださったと知ることが出来るのです。

私たちは、私たちの祈りに答えてくださる全能の父なる神様を信じます。

神に信頼して、祈り、一週間を共に歩みたいと思います。

2021年2月14日の礼拝説教要約  「天地の造り主を信じる」

2021年2月14日のオンライン礼拝説教要約

         使徒信条 「天地の造り主を信じる」 中道善次牧師

 

                                                            ≪創世記1章1と29~31節≫

 

今日は使徒信条の「われは天地の造り主、全能の父なる神を信ず」の前半の「天地の造り主を信じる」ことを共に学んでゆきたいと思います。

私が使徒信条からの説教を準備するとき、目を通す本の一つが「ハイデルベルク信仰問答」です。

その「父なる神について」の項目を紹介します。

問26 「われは天地の造り主、全能の父なる神を信ず」と唱えるとき、あなたは何を信じているのですか?

答え  天と地とその中にある全てのものを無から創造され、それらをその永遠の熟慮と摂理とによって、今も保ち支配しておられる、わたしたちの主イエス・キリストの永遠の御父が、御子キリストのゆえに、わたしの神またわたしの父であられるということです。わたしはこの方により頼んでいるので、この方が身と魂に必要なもの一切をわたしに備えてくださること、また、たとえこの悲しみの谷間へいかなる災いを下されたとしても、それらをわたしのために益としてくださることをわたしは疑わないのです。何故なら、この方は、全能の神としてそのことがおできになるばかりか、真実な父としてそれを望んでもおられるからです。

単なる信仰問答を越えて、私たちの信仰を励ます言葉が書かれています。

 

①天地を造った神

神が天と地を造られたことは、創世記1章に記されています。

ハイデルベルク信仰問答では、無から有を造られたことであり、今もそれを保ち支配しておられるとあります。

神が造られた天地、それは「よい」ものであった。創世記1章には、「見てよしとされた」という言葉が5回出て来ます。二日目を除き、1、3、4、5、6日に出て来ます。

その五番目の言葉が、1章25節です。

創 1:25 神は地の獣をそれぞれの種類に従って、家畜をそれぞれの種類に従って、地を這うあらゆるものをそれぞれの種類に従って造られた。神は見て、良しとされた。

そして天地創造の結論が1章31節です。こう記されています。

創 1:31 神は、造ったすべてのものを御覧になった。それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である。

極めて良かった。ヘブライ語では、トーブという「よい」をあらわす言葉が、二度繰り返されているのです。

私たちが、天地創造で覚えたいことは、神様はよいものを造られた。この地球は、よいもので満ちていた。そのよいものを、神様は造っただけでなく保っておられるのです。それが、地球の運行であり、太陽が昇り、そして沈むことであり、季節が巡り、雨が降り、食べ物が育つことであります。

しかしその美しく造られた地球を私たち人間が、破壊しようとしているのです。

地球温暖化、自然破壊、動物の乱獲などです。

しかしそのような現象が起こる前のことですが、ハイデルベクル信仰問答には、不作やひでりも、また、神の御手の中にあるというのです。問27を紹介します。

問27 神の摂理について、あなたは何を理解していますか。

答え  全能かつ現実の、神の御力です。

それによって神は天と地とすべての被造物を、いわばその御手をもって今なお保ちまた支配しておられるので、木の葉も草も、雨もひでりも、豊作の年も不作の年も、食べ物も飲み物も、健康も病も、富も貧困も、すべてが偶然によることなく、父親らしい御手によってわたしたちにもたらされるのです。

茅ヶ崎教会の祈祷会で、ヨハネ黙示録を学んでおります。黙示録5章を学んだ時のことです。5章4節に出てくる言葉があります。それは世の終わりに関する巻物が出てくるのです。その巻物は封印がしてあり、誰も開く者がいない。それでヨハネは泣き出してしまった。ここで何故そんなに激しく泣いたのか。

チャック・スミスという牧師は、世の終わりの事について書いてあるこの巻き物は、地球の権利証書のことである。この地球は、神のものです。その地球の権利証書は2通あり、1痛は神様が持っておられ、もう一通は、人間に渡されたというのです。

美しくよく造られた地球を、今も支配し、保っておられる神様の御手を信じる。それが私たちの信仰告白であります。

 

②私を造った神

第二に学びたいことは、この地球を造られた神は私も造られたことを信じることです。

それが創世記1章27節に記されています。

創 1:27 神は人を自分のかたちに創造された。神のかたちにこれを創造し、男と女に創造された。

そして造られた人間を見て、神がおっしゃったのは、31節で述べられた言葉「極めて良かった」です。

天地を造られた神が、この私を造られた。神に造っていただいた私は、ベリー・グッドな存在なのです。

ある方は、自分を見て、どこがベリー・グッドだ。いいところなんか一つもないと思うかもしれない。

そうかもしれません。私たち人間は蛇であるサタン・悪魔にだまされて罪を犯しました。そして堕落しました。その堕落した状態はベリー・グッドからはほど遠いのです。

しかし天地を造られた神は、もう一度無から有を造り出すように私たちを作りかえて下さったのです。それが2コリント5:17です。

コリ2 5:17 だから、誰でもキリストにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去り、まさに新しいものが生じたのです。

私たちはイエス・キリストを救い主として信じることで、新しく作り変えられたのです。

そして、神様によって造られた私たちは、神の作品であります。ある英語の表現ではマスターピース、傑作と訳されている言葉です。

エフェ 2:10 私たちは神の作品であって、神が前もって準備して下さった善い行いのために、キリスト・イエスにあって造られたからです。それは、私たちが善い行いをして歩むためです。

私たちの中からよいものが出てくる。よいものを生み出すことが出来る。そのように作り変えられたのです。

私は天地の造り主を信じますという告白をするとき、私も造られました。いや、造りかえられましたと告白できるのです。

 

神の摂理を信じる

「天地の造り主を信じる」という告白と結びつく言葉は、摂理を信じることだと多くの解説書が述べています。

ここでもう一度、ハイデルベルク信仰問答から引用します。

問28 神の創造と摂理を知ることによって、わたしたちはどのような恵みを受けますか。

答え  わたしたちが逆境においては忍耐強く、将来についてはわたしたちの真実な父なる神をかたく信じ、どのような被造物もこの方の愛から私たちを引き離すことはないと確信できるようになる、ということです。なぜなら、あらゆる被造物はこの方の御手の中にあるので、御心によらないでは、動かされることも出来ないからです。

信仰問答という言葉を聞くと、堅苦しい響きがあります。

しかしハイデルベルク信仰問答の中には、どのような恵みを受けますか。別の箇所ではもっとはっきりと「どのような利益を受けますか」と尋ねるのです。信じているものにとっての利益を、祝福を教えてくれるのです。

神の摂理を信じる。それは斜めから物事を見る人にとっては、おめでたい、都合がいい、そのような神の信じ方であるといっていいのです。

しかし、そのおめでたい人の代表と言えるのが旧約聖書に出てくるダビデです。

ダビデは、自分が書いた詩篇の中で、次のように告白しました。

詩 57:3 私はいと高き神に 私のために(すべての事を)成し遂げて下さる神に呼びかけます。

それとよく似た言葉をダビデは、サウルという王様に追われて、荒野を逃亡するとき、両親をエドムの王に預けるとき、言っているのです。

サム上 22:3 さてダビデはそこからモアブのミツパに赴き、モアブの王に言った。「神が私をどのようになさるか分かるまで、私の父母をあなたの庇護の下に置いてください。」

「どのようになさるか」というのは、先が見えない不安ではなく、神様がこれから、私のためにどんなすばらしいことをしてくださるか分かるまでと言う楽観的な響きがあるのです。

新約聖書では、パウロが摂理の信仰を次のような言葉で述べています

ロマ 8:28 神を愛する者たち、つまり、ご計画に従って召された者のためには、万事が共に働いて益となるということを、私たちは知っています。

万事とあります。そこには、どうしてこのような目に遭わなければならないのかということが含まれているのです。パウロ自身が直面したことで言うなら多くの迫害を受けたことです。仲間から裏切られたということがあります。

しかし、「神様どうして?」と思うような中でも、神の摂理の御手が全てのことを一点に向かわせるように働くのです。それが「益となる」ことです。それは自分にとって都合のよい益ではないのです。

むしろ、他の人のための益であるかもしれません。そしてここでは「益」というより「善」と訳すべきだと言う人もあります。

その善とは何か。神様にとっての最善であるのです。摂理の信仰。それは最善以下をなさらない神を信じることです。

2021年2月7日の説経要約 「救いが来た」

2021年2月7日の説経要約

                                 「救いが来た」      照内幸代牧師

                                         ≪ヨハネの黙示録 19章6節~16節≫

 

本日は19章から、私たちのところに来た救いについて読み取りたいと思います。大きく二つのことを考えたいのですが、一つ目にその救いは、婚姻・結婚になぞらえられているということです。

6,7節に「子羊の婚礼の時が来た」と天の軍勢が賛美していると書かれています。神様によって来た救いというのは、子羊の婚礼にたとえられているのです。子羊とは私たちの贖いのためにほふられたイエス様を指していますから、花婿はイエス様ということになります。

では花嫁は一体何を指し示すのでしょうか。

パウロはⅡコリント11:2でこう書いています。「私は神の熱心をもって、あなたがたのことを熱心に思っています。私はあなたがたを清純な処女として、一人の夫キリストに献げるために婚約させたのですから」。「あなたがたを一人の夫キリストに」と書かれているので、それはなんだか読み手一人一人のことを言っているように思いますが、あなたがたというのはこのコリント教会のことを言っているのです。コリント教会を、キリストと婚約させたと言っているのです。またエペソ人への手紙5章では、「教会がキリストに従うように、妻もすべてにおいて夫に従いなさい。夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自分を献げられたように、あなたがたも妻を愛しなさい。」と、キリストと教会の関係を夫婦の関係にたとえています。

神の国、神の救いのご支配が到来するとき、それはキリストと教会の結婚式であるというのです。ですから私たちが神様によってもたらされる救いのことを考えたときに、それは教会と切り離して考えることができないものだということをわきまえておかなくてはなりません。確かに救いに与るのは私たち一人一人であるという側面があり、信仰告白は一人一人が自分の意志で表明するものですが、その救いが来るとき、それはキリストと教会の永遠の繋がりが来たことを意味しているのです。私たち個人が救いに与りますが、それは共同体としての意味を持っています。私たちが救いのことを考えるときには、共同体のこと、教会のことをも心に留めるのがセットなのだということです。

二つ目に、この救いはイエス様の到来によってもたらされたということです。11節に、白い馬に乗っておられる方は、「確かで真実な方」と呼ばれ、義を持ってさばき、戦いをされるとかかれています。「確かで真実な方」というのは、協会共同訳で「忠実」および「真実」と書かれています。神の御前に一切罪を犯さず、忠実に十字架の道を歩まれたイエス様のことをあらわしています。イエス様は神のかたちであられたのに、自ら私たちのところに来て、私たちと同じ姿になってくださり、死にいたるまで、それも犯罪者に対する極刑であった十字架の死にいたるまで神様の前にあゆんでくださいました。それはイエス様を信じる者が誰でも、救いに与るために、自ら進んでそうしてくださいました。

この方は、「義をもってさばく」とあります。このイエス様は、さばき主として私たちのところに来てくださったのです。日本語で「さばき」とか「報い」とか言いますと、もしかしたらマイナスのイメージを持たれるかもしれません。確かにここで裁きというとき、それは悪に対して主が報復されるという意味もあります。しかし同時に、この裁きというのは、救いが行われることを意味しているのです。裁きというのは同時に、恵であるということなのです。

皆さんもし、神様が悪に対して報復するためだけに裁きを行うのだとしたらどうでしょうか。勿論きよくて正しい神様ですから、悪を許しておくということはできません。もし神様がご自分のきよさのためだけに裁きを行うのだとしたら、この世界も、この私も、とっくに滅びているのです。きよい神様と悪は同時に存在できないわけですからそうなります。しかし実際に神様が行われたのはなんということでしょうか。神様は罪を持っている人間がご自分の裁きを受けないために、御子イエス様を地上に送り、十字架にかけて、その流された血と復活を信じる者は、その罪が覆われて救いにあずかるという裁きを用意されたのです。誰でも神の裁きが行われるとき、主イエスキリストを仰ぎ見る者は、救われるという裁きに与っているのです。

私たちはこのように素晴らしい神様の約束に与っているのですから、失望しないでそのときを待ち望みましょう。やがてイエス様が来て下さることに期待し、今自分に与えられている信仰生活を、神様の御前に忠実に歩みましょう。やがて私たちは子羊の婚宴に招かれ、そこで「忠実なしもべよ、よくやった」とねぎらっていただけます。

2021年1月31日のオンライン礼拝説教要約 「告白の力」

2021年1月31日のオンライン礼拝説教要約

          「告白の力」 中道善次牧師        

 

「実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表してすくわれるのです。」

                                                       ≪ローマの信徒への手紙10章:9~10≫

 

鵠沼教会では、木曜日に祈祷会を行っています。(緊急事態宣言中は休会)

祈祷会では、主の祈り、十戒とメッセージを語ってきました。そして昨年の年末から使徒信条の学びをスタートしました。これら三つは、「三要文」と呼ばれています。

三要文のうち、主の祈りと十戒は聖書の中にあります。しかし、使徒信条は、聖書にそのまま載っているわけではありません。しかし、その大切さは変わりません。私たちはその意味をあまり知らないで、礼拝の中で唱えていることが多いのではないでしょうか。

ある人が、次のように言いました。もう使徒信条は古いから唱えるのを止めましょう。

確かに、古いかもしれません。しかし、使徒信条は大切なので、続けると答えました。

鵠沼教会の礼拝式では、司式者が必ず使徒信条を唱える前に言う言葉があります。

使徒信条は、古い言葉遣いですが歴代のキリスト教会がずっと告白してきた言葉です。

誰かがこの教会にやって来て、みなさんは何を信じておられますか。そのように言われたとき、どのように答えますか?

それをよくまとめており、また、私たちがすぐに口から言えるのが、使徒信条です。

使徒信条を大切だと思った根拠は、学んだ次の言葉です。

使徒信条は、信仰告白の中で一番古い歴史を持っている一つです。これは、おそらくローマの信徒への手紙が送られたローマの教会で生み出されたものと思われます。使徒信条の母体になったのが、古ローマ信条です。

ホーリネス教団の信仰告白は、聖書から終末までの8項目があります。続いて、歴代の聖徒とともに使徒信条を告白するというのです。

カトリック教会やオーソドックス教会(正教会)では、使徒信条に似たニケヤ信条を用います。

カトリックでは洗礼の時に、使徒信条を用いました。

いろいろな団体がありますが、みんな使徒信条を大切にしている。それは、私たちが信じている中身は同じだということを表すからです。

少し長いイントロになりましたが、使徒信条の大切さを申し上げました。

 

 

①信仰はやって来る

信仰を告白すると言いますが、信仰とは何でしょう?

私の体験を紹介します。

高校3年生の時でした。当時京都では、金曜日の夜だけ三条河原町という繁華街の喫茶店を借りて、伝道集会をしていました。上原令子さんという沖縄のゴスペル歌手が来るというので、のこのこ出かけてゆきました。上原さんは、私の心の中を見抜いているのではないかと思うお話をされました。

この中でクリスチャンらしくなってから、イエス様を信じて洗礼を受けようと思っている人はいませんか?残念ながら一生無理です。今のありのままのあなたでいいのです。ありのままでイエス様の所に飛び込めば、イエス様があなたを変えてくださるのです。

私は、喫茶店の椅子に座りながら、お話を聞いて思いました。今のそのままの自分でいい。ありのままでいい。その言葉がうれしくなりました。それと共に、私の心に何かがやってきたような感覚でした。

「何か」としか言えないのですが、今振り返ると、それは聖霊が私の心に「信仰」を運んで来て下さった。そのように受け止めているのです。

信仰は与えられるものだと、聖書に書かれていることなのに、私はがんばって信じる人にならなければと思っていました。

信仰は与えられる。それを示す聖書の箇所は、ガラテヤの信徒への手紙3章23節と25節です。

協会共同訳では、真実が現れる前は(23節)、真実が現れたので(25節)と訳しています。

ギリシャ語ではピスティスという言葉で、真実とも信仰とも訳せます。協会共同訳は「真実」と訳しました。

口語訳、新改訳2017、新共同訳、いずれも「信仰が現れた」と訳しています。

その箇所の英語には、before faith came(23節), after faith has come(25節)があります。

直訳するならば、「信仰がやって来た」です。

神様のところから私たちのところに信仰がやって来たのです。

エス様が私のために十字架にかかって死んでくれた。信じるか信じないかは、私次第だ。そう思っていた私のために、神様は御子を十字架に付けるだけでなく、信仰も与えてくださったのです。

「信仰が来る」ということを語るある先生は、信仰は自分で持ったものではない。与えられたものなのだ。

自分で獲得したものなら、自分にとって必要なくなれば捨てることもあるでしょう。しかし神様から大切なものを与えていただいたのであれば、それを大切にしなければならないのです。

私たちは信仰というプレゼントを神からいただいたのです。

 

②私の信仰と私たちの信仰

使徒信条で、注目する言葉が「我は、~を信ず」であります。

日本語では、天地の造り主、全能の父なる神を「信ず」とあり、信じるという言葉が最後に出て来ます。しかし使徒信条の元々の言葉で言うなら、「私は信じます」なのです。

私は信じます」であり、「私たちは・・・」ではないのです。

教会の礼拝で、一緒に唱えるのですから「私たちは、~を信じます」でいいと思うのです。

でも「私は信じます」というところに、使徒信条の大切さがあります。

使徒信条は、古代では洗礼式の時に告白されたと申し上げました。これから洗礼を受けようとする人が、告白する言葉であったのです。

ですから、「私たち」ではないのです。他のみんなと一緒という曖昧なものではなく、私は信じます。既にイエス様を信じ、洗礼式を見守っている人たちの前で、私は信じます、そのように告白することが大切だったのです。

しかし私が信じるといっても、持論を述べるのではありません。自分勝手な信じ方ではないのです。

使徒信条が示すのは「私はこう信じます」「私はこうです」というバラバラ勝手なことを言っているのではないのです。

自分の入信の物語を語ることはないのです。すばらしい信仰体験を語ることでも、誰々先生に導かれたことでもないのです。

使徒信条は、自分たちの信仰体験ではなく、私たちが何を信じているかを述べているのです。

日本人は信心、信じる心を大切にするのです。しかし、キリスト教は信じる対象が大切であります。

その信じる対象が、使徒信条には書かれているのです。

それが父なる神を信じること、御子イエスを信じること、聖霊なる神を信じることであります。

これらをシンプルに、個人の祈りの中で行う告白があります。

私は今日もイエス様を信じます。愛します。あなたのおっしゃることなら、何でも従います。そのように告白を口に出すことは、信仰の大きな力であり、励ましとなるのです。

 

③告白することの大切さ

最後に、口に出して告白する力です。ローマ10:9~10を見て下さい。

日本人は心で信じるけれども告白が出来ないと言います。

隠れキリシタンの傾向があるのです。それは「告白」と言うことが、あまり大切にされてこなかった日本文化の弱点である、とある先生は言われます。

10節を読むと、心で信じることが先に来て、あとから、口での告白が来るのです。

しかし一つ前の9節では、心の中の信仰と口で告白する信仰の順序は逆です。

9節では、先に口で告白し、次に心でイエスを信じると出て来ます。

両者が交換可能であることが分かります。

私がアメリカの日系人教会で学生牧師をしていた頃の話です。

ある駐在員の方が、奥様に導かれて洗礼を受ける決断をされました。

若かった私は、洗礼を受ける方との面談では、どこか遠慮がありました。ご本人の意思確認をして、一緒にお祈りして、それで十分だと思っていました。

そのあと、英語部のボスが、もう一度面談をするのです。

ボスは、自分のあとについて悔い改めの祈りを一緒にしたのです。

私は、駐在員の奥様からその話しを聞いて、上から目線だな、と感じました。

ところが不思議なことに、そのあと、その方の信仰は明白になったのです。

口に出すことの力を、私は学びました。

今日も、イエス様を信じます、愛します、従います。そのように告白して歩みたいと思います。

2021年1月24日のオンライン説教要約   「栄光の雲」

2021年1月24日のオンライン説教要約

                           「栄光の雲」   中道善次牧師

    

  出エジプト 40章33~38節

 

出エジプト40章から、完成した幕屋に栄光の雲が留まったという記事から説教を取り次ぎます。

 

①言われたとおり幕屋を造った

幕屋建設の記述の中で注目したい言葉があります。出エジプト35章30~35節です。

出 35:30 モーセイスラエルの人々に言った。「見よ、主はユダの部族のフルの子ウリの子ベツァルエルを指名して、31 彼に神の霊を満たし、知恵と英知と知識とあらゆる巧みな技を授けられた。32 それは、金、銀、青銅に意匠を凝らして細工し、33 宝石を彫ってはめ込み、また、木を彫るなど、意匠を凝らしたあらゆる仕事をさせるためである。34 さらに、主は彼の心に人を教える力を授けられた。彼と、ダンの部族のアヒサマクの子オホリアブにそうされた。35 彼らの心を知恵で満たし、彫刻師、意匠を考案する者、青や紫、また深紅の糸と上質の亜麻糸の刺繍職人、織り物職人、あらゆる細工仕事を行う職人、細工の匠として、あらゆる仕事をするようにされた。

また献げ物に関して、以下の箇所を御覧ください。

出36:3 彼らは、イスラエルの人々が聖所の建設の仕事を行うために携えて来たすべての献納物をモーセから受け取った。しかしイスラエルの人々は、なおも朝ごとに、自発の献げ物をモーセのもとに携えて来た。

出 36:7 手持ちの材料はすべての作業を行うのに十分であり、余るほどであった。

宝石の細工が出来る人。木を彫刻したり、金物の彫刻をしたり、工作が出来る人。織物が上手に出来る人。それらの方々の技術が用いられました。

それと共に、多くの人々が献げ物を携えてきたのです。

イスラエルが幕屋を建設するとき、人々に奉仕の心が与えられました。それは教会堂という建物を建てることに繋がると思います。

イスラエルの人々は、自らの技術、与えられた経済力、それらを幕屋建設の為に献げたのです。

そして似たようなことが、私たちの教会の会堂建築にも当てはまると思います。

教会員の多くの方々の技術、労力、献げ物が、私たちの教会のビルを購入し、それを改築して教会堂として献げるために用いられたのです。

教会は建物ではない。私たち一人一人が教会である。よくそのように言われます。しかし同時に、みんなが集まる礼拝をする場所を造ることは、目に見えない教会を作り上げることに深く繋がってゆくと、出エジプトの幕屋建設の記事から教えられたのです。

そしてついに彼らの礼拝を献げる場所、その準備が整ったというのが出エジプト40章でありました。

39章に、次のような言葉が出て来ます。

出 39:42 イスラエルの人々は、主がモーセに命じられたとおりに、すべての作業を行った。

出 39:43 モーセがすべての仕事を見ると、主が命じられたとおりに彼らが行っていたので、モーセは彼らを祝福した。

「主の命じられたとおり」。

単に建物を建てたのではなく、主の言われたとおりに造ったのです。

福音書の中で、イエスに天国に行くには、何が必要ですかと質問した富める青年がいました。主は戒めを守りなさいと言われました。主への応答で、「そのようなことは幼い頃から守ってきました」と答えました。しかし彼は全てを献げて主に従うことが出来ませんでした。この青年は、自分の基準では従っているつもりであったのだと思います。私たちも聞いたつもり、従ったつもりになっている。しかし本当は、ちゃんと、正しく聞いていないことがあるのではないかを顧みたいのです。イスラエルの人々は、主の言われたとおりにやったのです。

 

②神と出会う礼拝の場所

モーセが造った幕屋を「会見の天幕」あるいは「会見の幕屋」と呼んでおります。

出 40:34 会見の天幕を雲が覆い、主の栄光が幕屋に満ちた。

出 40:35 モーセは、会見の幕屋に入ることができなかった。その上に雲がとどまり、主の栄光が幕屋に満ちていたからである。

「会見の天幕」とは何を意味する言葉でしょうか。

国語辞典を見ると、前もって場所、時間を決めて人に会うこと、とあります。私たちも、主の日という時間を決めて、礼拝で主に会うのです。オンラインであっても、時間を決めて、礼拝をしておられる方が多くおられるのです。

イスラエルの人々にとって、神様とお会いできるのは、幕屋に来て、犠牲を献げる時でありました。

私たちの教団の創立者は、礼拝とは神様にお会いすることであると言われました。

その根拠をヨハネ20:19~20に見ることが出来ます。

ヨハ 20:19 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸にはみな鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平安があるように」と言われた。

ヨハ 20:20 そう言って、手と脇腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。

主とお会いする。そして喜びに満ちる。これが礼拝であります。

弟子たちは、自分たちの目で復活の主に出会いました。

では、今の私たちは、どのようにして主とお会いするのでしょうか?

二つの方法があります。

一つは賛美です。「賛美の生けにえ」と言う言葉があります。旧約の人々は犠牲を献げることで、神様の笑顔を感じ取ったのです。

今の私たちにとって、賛美が主への献げものです。主は賛美の捧げ物を受けて、私たちに笑顔を与えてくださる。これが主とお会いする第一のことです。

第二のこと、それは主のお声を聞くことです。

私たちは礼拝で聖書の御言葉を聞きます。それを神からの語りかけとして聞きます。

会見の天幕で礼拝をした人も主からの声を聞いたのです。

出 25:22 私はそこであなたに臨み(口語訳では、あなたに会い)、贖いの座、すなわち証しの箱の上にある二つのケルビムの間から、イスラエルの人々のために命じるすべてのことをあなたに語る。

イスラエルの人々は、二つのケルビムの間から語られる神の声を聴いたのです。

神のほほえみを感じ取り、神の語る言葉を聞く。それが私たちの礼拝であります。

 

③栄光の雲が満ちた

第三のこととして、幕屋に満ちた神の栄光を考えます。

出エジプト40:34には、会見の天幕に、主の栄光が満ちたとあります。

主の栄光は35節を見ると「雲」という表現で表されています。

聖書では、神様の栄光を「雲」と表現する事がしばしばあります。銀色の「もや」のようなもの、という牧師もいます。

神の栄光を、ヘブライ語で、シェキーナーと呼びます。その意味は、輝きを放つという意味です。

その事例が、ダマスコに行く途上で、パウロが光り輝く主イエスに出会って倒れた姿であります。これはシェキーナーの栄光に触れた姿です。

預言者イザヤは、神殿の中でセラピムが飛び交い、聖なる、聖なる、聖なると賛美している声を聞き、主の衣の裾が見え、畏れてひれ伏した。これも輝く主の栄光に触れた姿です。

主の栄光とは、目もくらむような輝きと雲の二つの表れであります。

出エジプト40章の幕屋の完成の時にあらわれた神の栄光は、雲という形でした。

モーセは、この二種類の神の栄光を個人的によく知っていました。神と深く交わるモーセは、その神の栄光を彼の顔に反映していたと、出エジプト34章には記されています。

最初に造られた人間は、この神の栄光に包まれていたのです。しかし罪を犯し、彼らの身体から神の栄光が去ってしまったのです。それでお互いの目が開け、恥ずかしいと思うようになったのです。

この出エジプト40章、幕屋の完成の時、失われたはずの神の栄光が、主の宮に、留まり、満ちたのです。

ここではイスラエルという共同体の上に、神を礼拝する場所に、神様の栄光が留まり、栄光が回復されたのです。

個人の栄光の回復のことをローマの信徒への手紙では次のように語ります。

ローマ 3:23 人は皆、罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっていますが、

「全ての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており」。これは、原文の意味を正しく伝えると、「神の栄光にショートしている」となります。神の栄光に届かないという意味です。私達は皆、栄光の輝きに包まれるという本来の姿からは程遠い。最初に人間が持っていた栄光の輝きを、もうだれも持っていない。

しかしイエス・キリストを信じることによって、罪が赦され、神のかたちが回復され、私たちの内側に神の栄光が回復されるプロセスがはじまるのです。

やがて私たちが天国に行くとき、神の栄光に包まれるのです。そして今、私たちはその回復の途上にあるのです。

教会も私たち自身も神様の栄光に包まれたいと願います