先週の説教要約 「聖霊の風」

○先週の説教要約
聖霊の風』                        上中栄牧師
《風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである》。(ヨハネ3:5−8)
この聖句は、主イエスユダヤの教師ニコデモの対話の一部です。人は《水と霊》によって生まれるべきという主の言葉に、ニコデモは困惑します。
さて今年は、5月15日が聖霊降臨主日です。復活祭、クリスマスと並ぶ教会の祝日で、主イエスの昇天後50日目に聖霊が降り。教会が誕生しました。《霊》は、日本語の語感で別のイメージと結びつきやすいのですが、聖書では「霊、風、息」はいずれも同じ言葉です。復活後の主イエスは、弟子たちに《息を吹きかけて…「聖霊を受けなさい」》と言われました。これは、天地創造のとき、神が《塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた》ことを思い起こさせます。つまり人間は、神の《息》すなわち霊によって生きるものとなりましたが、神に背いた結果、霊である神を見失い、ニコデモのように自分自身をも見失っているというのです。神は、主イエスの十字架の死と復活によって、人間を救うこととされました。聖霊はこの救いのみ業を私たちに示し、救いを成し遂げてくださいます。これが《霊》によって生まれるということです。
《水と霊》の水が洗礼を指すことは分かるとして、《霊》はニコデモばかりでなく、今日の私たちにも分かりにくいことです。霊のような捉えどころのない事柄ばかりでなく、人間の意識や感情といった身近なことも、目には見えず、科学的な説明には限界があると言われています。人間とは不思議な存在です。
主イエスはここで、《風》について語られました。私たちが風を感じるのは、音を聞いて、揺れる木の枝を見て、肌に感じて、この辺りであれば潮の匂いで、…というように五感で察知しますが、実際には見えません。《霊から生まれ》ることも、ニコデモのように合理的に考えて分からなくても、尋ね求める者には明らかにされ、神と本来の自分の姿と生き方を見出すことができるのです。