先週の説教要約 「静まって神を知る」

○先週の説教要約
『静まって神を知る』                   上中光枝牧師
《力を捨てよ、知れ わたしは神。国々にあがめられ、この地であがめられる》。
詩編46:1−12、ヨハネ15:9)
昨年末、体調不良の時にさまざまな奉仕の重圧を感じ、「とても自分の力では対応できない。ああもっともっと力が欲しい」と緊張し、恐れでいっぱいになってしまいました。神は《静まってわたしこそ神であることを知れ》(口語訳)と語られました。《静まって》は、新共同訳では《力を捨てよ》、新改訳では《やめよ》と訳されています。「力が必要です」と訴えているのに「捨てよ」ですか!?と戸惑いましたが、神を忘れて自分の力でどこかへ飛んでいくのではなく、主なる神に立ち返り、この方がどのような御方で、何をなさってくださるのかに目が開かれるようにと導かれました。神の御業を、来てしっかり見なさい。自分の力を捨てて、神と親しく交わり、「わたしこそ神である」と御自分を現わしておられる御方と一つに生かされなさい、と語られました。
《静まって》には、黙想のイメージがありますが、「放棄する、上げた手を降ろす」という意味があります。力を武器に進んでいくあり方、戦いモードを取り下げるのです。全世界に向かっては、「力での支配をストップし、シャロームの主を覚えなさい」との招きであり、イスラエルに向かっては、「他の強い国、異邦諸国と同盟を結ぶことをやめなさい」との命令です。私たちはお金や才能、資格や仕事、人脈など力あるものに繋がって自分の力とすると安心しますが、これらに頼り、主なる神を捨てるようなことがあってはなりません。
自分が握っているものを手放すのは怖いものです。よっぽどの信頼がなければ難しいでしょう。主イエスは私たちの救いのために、神であることを捨て、人となられ、十字架の上に全てを捨てて、命を与えられました。罪赦されて、この愛の主につながり、魂の憩いの中で、愛と信頼の関係に生かされています。神の臨在を内に知るときに、神の力に治められて私たちは揺らぐことがありません。