先週の説教要約 「分け隔てなく」

○先週の説教要約
『分け隔てなく』                    上中 栄牧師
《神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない》。   (使徒11:1−18)
これは、教会がユダヤ人中心から異邦人へと大転換した物語です。日本や世界各地で自国の利益を考える、内向きの傾向が強まっています。自分を中心にするのは、差別というよりは、自分の正しさを守りたいという思いの表れです。
ペトロは幻の中で、律法で食べることを禁じられていた物を、食べるよう神に命じられます。躊躇しつつ異邦人を訪ね、《神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました》と言って主イエスのことを伝えると、異邦人にも聖霊が降りました。「分け隔て」とは「誤った判断」という意味です。ペトロが守りたかったのは、律法にこだわる自分の正しさだったということです。
エルサレムの教会の人々は、異邦人を訪ねたペトロを非難しました。彼らが守りたかったのも、自分たちの正しさでした。神の恵みに壁はないのです。
もう一点、コルネリウスが軍人でした。愛と平和を語る新約聖書ですが、兵士や軍人を辞めろと勧める言葉はありません。そのため、キリスト教には正義の戦争はあり得るという考えと、非暴力を訴える絶対平和主義があります。
正義の戦争を主張するのは、キリスト教に限りませんが、愛と平和を語りながらも人が戦争するのは、①諸悪の根源は外にある、つまり自分たちの幸せを妨げる原因は、自分以外にあると考え、②敵は意図的に攻めると考える、つまりささいな行き違いでも敵意と受け止め、③今は特別な時だと思う、という要素があると分析する専門家がいます。しかし興味深いのは、同じことを平和主義者も考えるというのです。自分が正しいと思っても、答えは簡単にはでないわけで、戦争と平和の問題の難しさ、また人間の愚かさを思わされます。
そうであれば私たちにできるのは、自分の正しさを主張ではなく、《神が清めた物を、清くない》と言うような「誤った判断」をしないことです。自分も隣人も、全ての人が神の恵みの中にあることに、目を留めましょう。