先週の説教要約 『神を「父」と呼ぶ』

○先週の説教要約
『神を「父」と呼ぶ』                    上中栄牧師
《あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです》。(ローマ8:14−15)
人間はいろいろな「神」をイメージしますが、聖書が伝える神ご自身が自らをお顕しになった神のご性質・御姿は、私たちの想像が及ばないものです。
まず聖書は、神が天地の創造主であると告げます。全ての人間は、生まれながらにしてかけがえのない存在として造られ、生きる目的をもって保たれています。これは、今日の人権理解の基でもあると申しました。
そして私たちの神は《父》であるというのです。今日、「父」をめぐる価値観・思いはさまざまですが、そもそもは最も身近な信頼関係、権威を表します。神が父であるという信仰は、旧約聖書の時代からありましたが、圧倒的な信頼関係の深さを示されたのは、イエス・キリストです。
主イエスは、常に《アッバ》と祈られました。これは幼児が親を呼ぶ、信頼に満ちた呼びかけです。その様子を見た弟子たちは、自分たちにも祈ることを教えて欲しいと願い出ました。その時に主が教えられたのが、「天の父よ」すなわち《アッバ》という呼びかけではじまる「主の祈り」です。
しかし、人間は自分で神をイメージします。そして自分のイメージや願い通りでないと拒みます。それが人間の罪であり、主イエスの十字架の死はその結果です。けれども、このイエスを主と信じた者は、神の子の資格が与えられます(ヨハネ1:12)。神を《父》と呼べるのは、信仰者の特権なのです。
パウロはそれを、奴隷ではなく相続する権利のある《神の子》とされることだと、手続きになぞらえて言います。神の子に相応しくない者が、神の子にされるのですから、それは神から一方的に与えられる恵みです。自分の状況や気持ちとは関係がありません。生きる目的が与えられているのですから、私たちは意識して自分の心を神に向け、「アッバ、父よ」と祈りながら歩むのです。